産繊新聞社

はじめに

はじめに

―高砂やこの浦舟に帆を揚げて月もろともに出汐の、波の淡路の島かげや、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江につきにけり―
白砂青松のうち続く高砂の浦曲、翠巒の高砂妙神の境内より小鼓の音もさえて謡の一節がもれてくる静寂の町、ここ播州高砂は、中世以降の名であって、上古は南昆都麻と称えていた。後にナビツシマと称し加古島と改め、更に高砂と変化したのであるが、荒井、小松原、尾上の地を併せて御厨庄とも呼んでいた。昔から高砂の尾上ともいっているが、続く浦曲の同じところの名ある高砂の名は、イサゴ(砂)が高く積もっている意味から起こり、尾の上は獣の尾の如く湾曲した入り江で、即ち尾江であるということから起こった名である。
 中納言匡房の歌に
「たかさごの尾の江の鐘の音すなり、暁かけて霜やおくらん」
また「月冷」に
「高砂のおの江の松に吹く風の音にのみやはききわたるべき」
など、高砂と尾の上とを一つの所とした証拠である。
 神功皇后御征韓の時、高砂の漁民が鮮魚を奉ってから代々朝廷へ納める村となっている。このころから漸く船舶の出入りが多く、源平の乱を中心に軍のしきもりを置いたが、天永2年(1109年)源季房が播磨に封ぜられてから代々この地を領するようになった。天正8年(1580年)、羽柴秀吉中国征伐の時、三木を攻略し、秀吉の朝鮮征伐には屈強な高砂の船頭100人を従軍せしめたので高砂町方十町を限り永代免税の恩典を下されたのであった。
慶長五年(1600年)12月、池田輝政が播・備・淡三国の領主となり、高砂町の開発に意を注ぎ、御用人赤穂屋徳兵衛に塩業を始めさせた。慶長17年(1612年)には、かの有名な天竺徳兵衛(※)が高砂船頭町に生まれている。寛永年間に至り当時姫路藩の財政は疲弊を極めたるを以て、家老河合寸翁が綿花の栽培を奨励し、ついに姫路木綿として、後年江戸に送り、伝馬町辺りの木綿問屋に売捌かせたのがもとで、遠く両羽、信州、北陸、さらに九州地方にまで全国的に散じられ播州木綿の名声の因をなしたということである。かくして高砂の浦は漁村であり、船舶の寄港地であり、姫路木綿の集散地として、年とともに繁栄を誇った。
そうした環境の中で松右衛門が産声を上げたのは、寛保3年(1743年)のことである。
 幼にして漁労に妙を得、船頭として又衆人に勝り、帆布を発明し帆船を操術し、遂に築港に妙技を振って晩年を飾った翁の一生を省みるとき、その生涯史は即、中世高砂発展史に重なり、翁と高砂の深き縁には誠に興味尽きざるものを覚えるのである。
 又、天竺徳兵衛は、寛永3年(1626年)に京都角倉の御朱印船に乗り込み、印度に渡り、さらに第2回目はオランダ人・ヤンヨーステンの船を借り、寛永7年(1630年)再び天竺に渡り各所で貿易をなす傍ら、親しく仏蹟を巡拝し種々珍奇なるものを積んで寛永9年8月長崎に帰ったという我が国南進貿易の先駆をなしたのが、松右衛門の生誕に先んずること約百十年以前のことであり、徳兵衛の偉業が天禀の才に燃ゆる少年松右衛門を如何に動かしたかは、ほぼ察せられることであり、ところを同じくして、然も僅か一世紀間に2人の偉傑を青史におくり、その不滅の偉業は、ひとつは後世の国家財政の基盤となる貿易に、ひとつはわが業界繁栄、開門の祖となり、永えに万人渇仰の的となる、誠に偉なる哉というべしである。
 ここに我が帆布織の始祖と謳われる「工楽松翁伝」の稿を起こすにあたり、いささか高砂の浦曲をかけめぐりて〝まえがき〟といたす次第。
 「高砂神社に詣で翁の遺徳を偲びつつ」
 松の葉の散り失せずして色はなほ、まさきのかずらながき世の、たとへなりけり常盤木の中にも名は高砂の、末代のためしにも相生の松ぞめでたき。
 (昭和29年1月9日)
※ 天竺徳兵衛(てんじく・とくべえ)
 慶長17年(1612年)に高砂の船頭町に生まれ、15歳のとき、京都の角倉興市の船頭前橋清兵衛の書役としてシャム(タイ)にわたり、その後さらにオランダ人の船で南蛮にわたり、交易に従事した。徳兵衛はこの間の体験を見聞記にまとめたが、この話はやがて歌舞伎の題材にもなり、四世・鶴屋南北の『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』は有名である。
画像の説明画像の説明
高砂神社の相生の松(右は昭和初期の絵葉書)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional