産繊新聞社

戦のときの戦士の休息場所

戦のときの戦士の休息場所

テントの歴史を紐解いていくと、必ず関係してくるのが「戦争」です。アレキサンダー大王の時代、古代中国でも「戦(いくさ)」の場面には必ずテントが登場しています。持ち運びができるというテントの特性は、軍を進める際必要不可欠なものであったに違いありません。ちなみに、古代ローマ軍隊の野営テントは正方形が多く、ギリシャ軍隊の野営テントは円形が多い特長が見られました。一説によるとギリシャ軍隊は、テントの中心にリーダーと皇帝指揮官を置き、その周りを経験の浅い兵士が円形に囲んだため形状が円形になったといわれています。テントの外は経験のある古兵を配置しましたが、四方八方からの攻撃から「防御」することを最優先に考えたためといわれています。真偽は定かではありませんが、機会があれば「軍事の際の戦法とテント」というテーマで論文をまとめてみたいと思っています。
では日本ではどうだったのでしょうか?「禁中・公家の行事または社寺の祭礼・法会の臨時建造物」、「災害時の避難所」としてのテントの使われ方については前に紹介しましたが、実は日本でも「戦(いくさ)の場」でテントが使われていたと思われる書物があります。続日本紀(※1)聖武天皇神亀元年の項に次のような記載があります。「陸奥国言、海道蝦夷反、殺大掾従六位上佐伯宿禰児屋麻呂。夏四月庚寅朔、令七道諸国造軍器幕等数有。(中略)丙申、以式部卿正四位上藤原朝臣宇合為持節大将軍。宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂為副将軍。判官八人、主典八人。為征海道蝦夷也」(訳・陸奥国からの報告では海道〈今の宮城県一帯〉の蝦夷〈えみし〉が反乱を起こし大掾従六位にあたる佐伯宿禰児屋麻呂を殺した。そこで夏四月庚寅の朔、七道の諸国に軍器の幕、釜を造らせた。(中略)丙申、式部卿正四位の藤原朝臣宇合(うまかい)を持節大将軍に、従五位の高橋朝臣安麻呂を副将軍に、そのほか判官(軍曹)八人、主典八人を選び、海道で暴れる蝦夷(えみし)の制圧に当たらせた)。ここに登場する『幕』は、兵士の自備する戎具としての『天幕』と解釈されていて、兵士10人に1口の紺の幕が用意されていたと令義解(※2)5の軍防令に記載されています。
ところが戦争の場面でテントが使われたという記載は、この続日本紀以降、平安時代、鎌倉時代の軍記物語の中にはありません。唯一平家物語に「幄(あく)」という記載があるのですが、巻十の〝大嘗会〟に登場する「幄」は「祭祀的利用」、巻十二の〝大地震〟に登場する「幄」は「仮設避難所的利用」ですからそれぞれ軍事的利用とはいえません。その後、「幄」「帷幕(あげはり)」という単語が「戦」を描いた文献で確認できるのは、南北朝を舞台とした太平記(※3)です。太平記「赤坂城軍事(あかさかのしろいくさのこと)」に次の一節が確認できます。「遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入、或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。(中略)正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、『いやいや此城(このしろ)の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。』とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。』(訳・遙々関東から攻め上がってきた大軍は、まだ近江の国へもはいらない中に笠置の城が落ちたので、誰一人京都に入らず伊賀・伊勢の山から、もしくは宇治・醍醐の道を通って皆楠兵衛正成の立籠る赤坂城に向かった。(中略)正成は元来智謀の人であったから、よりすぐりの勝れた射手二百余人を城中に置き、舎弟の和田七郎正氏と和田五郎正遠の二人に三百余騎をつけてよその山に備えて置いた。寄手はそんな事とは少しも知らず、城にばかり気をとられ一気に攻め落とそうと、一度に四方の崖の下まで押し寄せた処を、櫓の上や狭間(九)の陰から鏃を揃へて絶え間もなく射かけたから、一時の間に千余人の死傷者を出した。関東勢はあてが外れて、「いやいや此の様子では、一日や二日に城は落ちないぞ、暫くの間陣所々々を取り、役所を設け、手分をして戦え。」といって、攻口を少し退き、馬の鞍をおろし、甲胃を脱いで、皆帷幕の中で休んでいた)。
前半部に「帷幄」という単語が見えますが、これは「策を帷幄の中に運し勝ちを千里の外に決す」という司馬遷の「史記」の慣用句から来ていると思われますので(太平記は漢籍の由来故事が多く見える)、ここでは無視してください。ポイントは後半に見える単語「帷幕」。筆者としてはこれを「あげはり」と読み、「テント」と解釈しているのですが、古文訳者のほとんどがこれを「いばく」と読み、「四方を囲む幕」と訳しています。このあたりが実際どうであったか判断に苦しむところなのですが、埼玉県立博物館が所蔵する図録太平記絵巻には「四方を幕で囲った陣」は多く登場していますが「幄」は登場していないことを考えると古文訳者の解釈のほうが正しいのかもしれません。ちなみに絵画で「幄(テント)」が登場するのは、筆者が確認したものとしては「前九年合戦絵詞」の阿久利(あくと)河畔の戦いにおいて源頼義の陣に「幄」が描かれている程度です。よく「テント文化の発展は戦争と共にあった」と業界の中で言われてきましたが、こと日本だけに限ると「戦争」に使われたのはほんの一時期で、さらに時代が江戸時代に近づけば近づくほど使われなくなったといえます。これは戦の場では「実用性」が重視されたのに対して当時、絹を素材とした幄覆(天幕部分)では、「雨よけ」「日除け」の要素を十分に果たすことができず、使われなくなったと考えられます。その一方、「祭祀」では「実用性」より「装飾性」が重視されたようで、今でも「幄」という言葉が皇室に存在している理由なのかもしれません。
※1・続日本紀(しょくにほんぎ)
『日本書紀』に続く勅撰歴史書で「六国史(りっこくし)」の2番目にあたる。697年~791年に至る95年間を編年体で叙述、797年に全40巻が完成したと思われる。
※2・『令義解』(りょうのぎげ)
833年、淳和天皇の勅撰で清原夏野を中心に、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された令の解説書(全10巻)。
※3・太平記
後醍醐天皇の即位、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの約50年間を描いた軍記物語。作者不詳。成立年代は不詳ながら1370年あたりか。
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参考文献・参考絵画
新日本古典文学大系13・続日本記2/青木和夫、稲岡耕二、笹山晴夫、白藤禮幸(岩波書店)
『新訂増補国史大系 22.律・令義解』 吉川弘文館
訳註日本律令〈11〉令義解訳註篇 別冊 律令研究会 (単行本 - 1999/6)
日本古典文学大系新装版歴史文学シリーズ・『太平記』全三巻/後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注(岩波新書)
新潮日本古典集成『太平記』全五巻/山下宏明校注(新潮社)
続日本絵巻大成17「前九年合戦絵詞・平治物語絵巻・結城合戦絵詞」/小松茂美(中央公論社)
図録太平記絵巻(埼玉県立博物館所蔵)/埼玉新聞社

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