産繊新聞社

戦前の出来事(昭和10年~終戦)

戦前の出来事(昭和10年~終戦)

社会での出来事
昭和12年、軍需ボーナスで個人消費が刺激されたことで、一時的に景気がよくなったように見えたが、裏では日中間で軍事衝突が起こっていた。7月7日に蘆溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が勃発した(12月13日、日本軍が南京を占領)。全国各地では千人針や慰問袋が盛んとなった。昭和13年4月1日、国家総動員法が公布、10日には灯火管制規制が実施され、暗幕型の覆い笠や内側を黒く塗った電球が売り出された。国際的な孤立感が漂った昭和14年7月、国民徴用令が実施され、技術者として出頭が命じられた合格者には「白紙の徴用令書」が手交された(徴用は白、徴兵はアカ紙)。男の国民服は、カーキ色の五つボタンで、これを着ないと「非国民」扱いされた。昭和15年に入ると米、味噌、砂糖、醤油、マッチ等の生活必需品が切符制度になった。昭和16年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃、米英両国に宣戦布告しついに太平洋戦争に突入した。昭和17年6月8日、ミッドウェー海戦で敗れ戦局が悪化、その後日本軍は各戦線で敗退したが、報道が制限されたことで国民は事実を知らなかった。昭和19年1月7日、大本営が全力をあげたインパール作戦も失敗、7月7日にサイパン島が陥落、8月4日、学童の集団疎開はじまった。10月24日、フィリピン・レイテ沖海戦で初の神風特攻隊が出陣するも、出撃した特攻機2483機のうち、敵艦に命中したもの244機しかなかった。昭和20年2月19日、硫黄島に米軍が上陸し日本軍23、000人が玉砕、4月7日不沈戦艦「大和」が戦わずして沈没するなど戦況はいよいよ不利となり、6月28日、沖縄守備隊が全滅、8月6日、広島に、9日は長崎に原爆が投下された。8月10日、御前会議でポツダム宣言を受託し、8月15日、ついに終戦を迎えるのである。
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業界での出来事
日中戦争がはじまった昭和12年末、「綿製品ステープル、ファイバー等混用規制」が公布され、国内用民需綿製品に対してスフ3割3分以上の混用が強制された。このときは産業用繊維の帆布、漁網糸、ベルト用布、タイヤコードは「特免品」扱いであったが、13年6月に「綿製品ノ製造制限ニ関スル件」「綿製品ノ加工制限ニ関スル件」「綿製品ノ販売制限ニ関スル件」という禁綿令が公布されてからは、輸出は生産者を主体とする個人リンク制がとられ、織布専業者は紡績会社の賃織業者となり、業界の様相が一変した。この法令によって、内地の配給面は商工大臣が指定する団体以外は取引ができないことになり、日本綿織物卸商業組合連合会(以下綿商連)が取引団体の指定を受けて、傘下の卸売業者の元締として流通機構の主軸となった。
特免綿織物の取り扱いも一般業者に任さず団体取引によって生産販路の一元化を図り、その適正を期すため統制会社を設立することになり、昭和14年11月帆布類を日本特免帆布元配給株式会社という統制会社が設立された。社長は高島幸太吉氏、常務は山口貞助氏、取締役に福井力蔵、井上理一郎、俣野守一郎、吉岡啓三、高橋九六、小川治兵衛、見谷俊夫の7氏が名を連ねた。
こうした問屋筋の動きに連動して、縫製加工業者も大谷帆布店の提唱で帆布を公正に入手すべく、大阪、兵庫、福岡、東京、京都の5地区で組合が結成され、昭和15年10月、大谷弥三郎氏を初代会長に日本天幕雨具工業組合連合会(以下天連)が組織された。その後主管官庁との交渉や手続きのため、東京に事務所を移し、昭和18年9月、全国帆布製品統制組合へ移行するのである。
ここで防水・染色加工業の歴史についても触れておこう。明治の末期から大正にかけて〝鬼に金棒〟印の別珍やコール天の足袋が売り出され、生地が破れても色は褪せぬと大評判だった鬼足袋㈱の染色仕上げを一手に引き受けていたのが平岡織染である。明治35年に糸および小幅もの染色工場を創設した初代平岡辰次郎氏は明治40年にわが国最初のコール天染色整理工場としてその技術を確立し世に〝名工技術の染辰〟として喧伝されたが、その同社が株式会社に改組したのが、昭和10年のことであり、同時に一般広幅織物の各種染色および化学防水加工部を増設した。
一方、現・カンボウプラスの設立までの経緯についてみてみよう。軍拡のみならず満州事変以後満鉄や朝鮮鉄道のシートに大量の帆布が必要とされた昭和初期、創業者の岩堀政次郎氏は甲陽染工㈱に在籍していたが、やがて同社が他社と合併する昭和11年に安藤幸男、吉崎徳太郎、青原忠一、武部徳義の4氏とともに合名会社武庫川染工場を設立した。戦争が熾烈となるにつれ、国策に沿って染色業界は統合整備が進み、昭和16年9月、日本織物染色工業組合連合会が設立されたが、これと時を前後して4月に錦華紡、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の4社が合併して大和紡績に、翌昭和17年7月に、武庫川染工場は大和紡青木工場と合名会社山喜染工場との間で企業統合の話が持ち上がり、昭和18年4月に関西帆布化学防水㈱が設立するのである。

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