産繊新聞社

昭和31年

昭和31年

社会での出来事
 神武景気真っ只中の昭和31年。7月17日に経済白書で発表された「もはや戦後ではない」が流行語となった一方で、熊本県水俣港の魚貝類常食者に奇病が多発する(後に水俣病と命名)など、公害問題が表面化しつつあった。
 新年早々、新潟県弥彦神社の初参りで124人が圧死する事故が起こった。2月6日、出版社初の週刊誌「週刊新潮」が創刊した。3月10日、羽田など4空港管制権が米側から日本に返還された。5月24日売春防止法が公布された(33年4月1日施行)。10月19日には日ソ国交回復共同宣言が出された(12月12日発効)。12月18日には、日本の国連加盟が認められた
 漫画では、「サザエさん」が新聞に掲載された。歌では「若いお巡りさん」(曽根史郎)、「ここに幸あり」(大津美子)、「哀愁列車」(三橋美智也)などがヒット、テレビでは、「鞍馬天狗」(TBS)や「名犬リンチンチン 」(日本テレビ)、「お笑い三人組」 (NHK)が人気となった。書籍では石原慎太郎の「太陽の季節」が大ブーム。そのほかホッピングも大流行した。
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業界での出来事
 戦後10年を経過したこの年は、繊維市況が活況を呈した。造船、鉄鋼、石炭など基幹産業から陸運、海運など好況の波で、帆布、化合繊とも売切れの状況、賃織の二流品からスフ混に至るまで品薄で「あれば売れる」状態であった。帆布用に使用される綿糸10番手が梱あたり、1万円も急上昇するなど、紡績メーカーが綿帆布価格の値上げを唱えだした。下半期に入ると、重布の機屋の生産は、260万ヤードに達した。これを受けて敷島紡績はビニロンを量産、帝人はテビロンを量産した。国鉄の貨車不足が表面化する中で、綿帆布もトラックと機帆船用のシート用途に出荷を伸ばした。
 5月の雨量が大正12年に継ぐ記録となったこの年、ゴム引き雨具やシートの売上が急増した。これは、この年の3月20日、ソ連が警告なしに核兵器実験を実施、翌21日に日本海側及び北海道に放射能の雨を降らせ、雨に対する警戒感が高まっていたことも影響した。
 5月9日、日本登山隊がマナスル登頂に成功した際、倉レのクレモナ・ビニロン#8100のキャラバンテント、ルーフテント、カマボコテントなどを携行していたことからビニロン帆布の名声が高まり、防衛庁、各官庁の採用が本格化、量産体制をとるようになった。
 この年の夏はキャンピングブーム。西武鉄道は所有地の芦の湖畔に「テンガロー村」をオープンさせた。このバンガローは堅牢と涼味、山と水との調和を基準にテントとバンガローを組み合わせた二重屋根の新型式で、屋根の膜材には五色のサランを使用、水辺に映る内膜は白色を使用した。この「テンガロー村」は、オープンと同時に人気となり、西武鉄道は信州高原や万座温泉でもオープンし、これだけに使われたサランは1万ヤードを超えたという。設計・加工は高島が担当した。
 10月26日より奈良の天理教総本部で開かれた秋の大祭で、広大な神域をテントで覆う企画が進められ、太陽工業が受注、2200坪の大テントを一週間で納入する離れ業を成し遂げた。
 11月1日より兵庫県で開かれた国体開会式に天皇、皇后両陛下が出席されたが、その際大阪の観光会館に宿泊、その別館に飾られた府下の代表産業品をご覧になられたところ、朝日加工が出品した綿帆布、ミューロン帆布の染色防水加工品にいたって興味をもたれたという。この天覧の栄は同社のみならず、染色防水工業会全体にとって明るい話題となった。
 業界団体関連では関東重布会の解散後、新興産業などが中心に関東重布五社会が発会した。大阪天幕商工組合(森本卯三郎理事長)が四月十五日有馬月光園で春季総会を開催した。五月十三日、東京重布会と関西重布会がはじめて合同の交歓会を開催、東京重布会を代表して青木七郎氏(加藤五兵衛商店)、関西重布会を代表して高塚謹一氏(高島㈱大阪支店)がそれぞれ挨拶を述べている。高島は5月17日に本社移転パーティーを開催した。
 組合関係では京都テント工業親睦会の発会式が7月14日、東山今熊野「魚満楼」で、神奈川県天幕雨覆商工組合(山口三代一理事長)の創立総会が8月19日、横浜の野毛山ホテルにおいて開催。東京天幕雨覆商工組合(山下賢之助理事長)は浅草公会堂において第1回通常総会を開催した。11月30日、会社更生法を申請していた東洋繊維の更生計画案が東京地裁で認可され、新・東洋繊維が再出発した。

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