産繊新聞社

昭和33年

昭和33年

社会の出来事
 昭和33年上半期、長嶋茂雄が巨人に入団、4月5日の公式戦で、4連続三振という華々しいデビューを果たした。3月3日、富士重工業はスバル360(通称・てんとう虫)を発売、360㏄のエンジンながら大人4人が乗って最高時速は80㎞/h以上に達したという。4月1日に「何人も、売春をし、又はその相手方になってはならない」と売春の一切を禁じた売春防止法が施行された。この年、大卒の初任給は平均1万3467円で、テレビはまだまだ高嶺の花。5月16日、テレビの受信契約者数がようやく100万台を突破したが、その普及率はまだ10%を超えた程度であった。11月27日、明仁皇太子(現天皇)と正田美智子さんの婚約が発表、民間から初めて出る皇太子妃として、当時「ミッチーブーム」を起こした。12月1日、高度経済成長を象徴する1万円札が登場、12月23日には東京タワーが竣工した。
 ヒット曲では「夕焼けとんび」(三橋美智也)、「だから云ったじゃないの」(松山恵子)、「嵐を呼ぶ男」(石原裕次郎)、「おーい中村君」(若原一郎)など。世界初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」もこの年生まれた。そのほか、ロカビリーやフラフープがブームとなったほか、エポック社の「野球盤」が発売され、大ヒット商品となった。ファンタ(オレンジ・グレープ)や果汁飲料プラッシー、冷蔵庫用の脱臭剤キムコ、日本初の缶ビール・アサヒビールもこの年発売された。
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業界の出来事
 全国各地でサランテント協力会が結成される中、全国を網羅する販売協力体制が出来上がった。発売5周年とも合わさって、東京は熱海へ、西日本は伊勢志摩へ招待旅行会も開いている。同じく呉羽化成のクレハロンテントも発売3周年を記念して会津磐梯山へ招待旅行会を開催していて、この年より各社が旅行会を企画していく。
 1939年に発明されたビニロンは、この年20歳を迎えた。軽量、強靭、腐らないの三つの特徴から、産業資材への応用が進み、大和紡績は倉レと提携し波星印ビニロン帆布を、東洋紡は日紡から糸の提供を受け、独自の技術で織布、加工を施した日生つばめ印ビニロン帆布を市場に投入した。ビニロンはその性能から船舶のハッチカバーとして数多く使われ、敷島帆布㈱もビニロンの原糸を用いてスチールカバーに対抗する強靭なハッチカバーを製品化した。
 この当時、ビルや劇場の火災も増えてきたことで、現在の不燃の概念とは違うが、繊維にも「燃えない」ものという要求がでてきた。こうした声に旭化成は、「サラン糸」に消化剤である塩素60%を含有することで、火に遭うと一部が分解して消炎性のガスを生じ、局部のみで消化する繊維を開発した。6月26日、27日、大阪の国際見本市会館で同社は「燃えないサラン製品展」を開催している。
 業界ではクレハロンテントが値下げを断行したことで、問屋筋がその対応に苦慮するようになり、重布会は紡績各社に出値の格差是正を要望した。また純綿帆布と称しながら、格落糸を以って製織し、販売する業者がいたことから、大手メーカーが真相究明に乗り出したが、背景には昨年秋からの市場低迷、売れ行き不振があった。一方で帆布は二級品、三級品が幅を利かすようになったが、紡績筋から二級品と称するものを発売するケースもあり、品質表示法の解釈が議論のひとつとなった。当時の品質表示法では、純綿織物とは、組成繊維の中で綿以外の糸の混用率が1%以下で通産省の省令で定めた引張強度以上を有するものと定められていて、これ以外は混紡綿織物、交織綿織物、混用綿織物と明示しなければならないとされていた。
 業界関連では、倉田帆布、尾道帆布、恵藤織物、武鑓織布、滝野帆布、三信帆布、栄豊紡網の名古屋以西の業者が日本帆布工業会を設立した。組合関連では3月26日、浅虫温泉で、青森県天幕雨覆商工協同組合(石岡万次郎理事長)が設立総会を開いた。昭和31年に任意団体として生まれた京都テント工業会は、4月20日に弁慶楼で総会を開催し京都天幕商工組合に名称を変更、進藤武造理事長の下、公認団体としてスタートした。7月に関東の帆布製造業者の岡戸紡績、千代田紡績、埼玉織物工業、金子織物、金沢織布の5社で関東帆布工業会が設立、9月には全国麻糸布卸商業組合創立され、初代理事長に広瀬太次郎氏(廣瀬商会)が就任した。

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