産繊新聞社

昭和36年

昭和36年

社会での出来事
自然災害が多発した昭和36年。1月1日の元旦、日本海側で大雪が降り、国鉄ダイヤが大混乱に。9月16日、第2室戸台風が襲来し、202人の死者を出したほか、10月25日の西日本豪雨では、106人の死者・行方不明者を出した。
2月14日、俳優・赤木圭一郎が東京の日活撮影所でゴーカートを運転中、鉄扉に激突し重傷負いその一週間後の21日に死亡する痛ましい事故が起こった。スポーツでは9月場所後に大鵬・柏戸が揃って横綱に昇進し、「柏鵬時代」が到来、10月15日に日紡貝塚女子バレーチームが欧州遠征より全勝で帰国し、「東洋の魔女」と呼ばれた。
12月に入ると秋田でニセ千円札発見された(チー37号事件)ほか、旧軍人らによる内閣要人暗殺計画発覚し、13人が逮捕されるいわゆる「三無事件」が発生した。
景気が世相に影響したのか、「ズバリ当てましょう」や「シャボン玉ホリデー」、関西では「スチャラカ社員」などバラエティー番組やお笑い番組が放映されだした。明治製菓が「マーブルチョコレート」、武田薬品が「いの一番」を発売し現在までロングセラーに。洋楽では「ムーン・リバー」「GIブルース」「花はどこへ行った」「スタンドバイミー」「カレンダーガール」「可愛いベイビー」「ルイジアナ・ママ」が流行ったほか、書籍では「砂の器」(松本清張)がベストセラーに。伊東温泉のハトヤのCM「で・ん・わ・はヨイフロ、4・1・2・6、4・1・2・6ハッキリ決めた、ハトヤに決めた」は、今でも耳に残っている。
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業界での出来事
 前年の11月に米国アイゼンハワー大統領が、「国際収支緊急令」を出しドル防衛に乗り出し、更に1月に大統領に就任したケネディがドル防衛策を強化したこともあり、業界では輸出面で停滞を予想するようになり、景気の先行きに悲観論が流れだした。しかし、現実的には建築ブーム・土木ブームなど旺盛な内需から朝鮮特需以上に業界は沸き、さらに、屋外養蚕用テントや農耕機具カバー、肥料袋など旺盛な農村需要も後押し、綿帆布の生産量は4月に入ると323万ヤード、合繊帆布が30万ヤードに達した。また、帆布が衣料とは異なり相場が安定していたこともあり、大手貿易商社が重布部門に乗り出す態勢を整えだした。業界関連企業では、高島㈱が建築資材から石油製品(出光との提携)販売に乗り出し、総合商社へと躍進した。また、関西帆布化学防水㈱(岩堀政治郎社長)も資本を増強、一億五千万円とし、株式を店頭公開した。
 しかし下半期に入ると、好調だった上半期から一転、株式の暴落、低調な綿糸相場、戦後最大の外貨赤字、輸出不振、金融引締めなど一連の悪材料が重なり、帆布業界に売掛回収の遅延や売上不振などしわ寄せが表れてきた。11月に入ると帆布の在庫にダブつきが見られるようになったが、輪をかけて神武景気以後、再三行なってきた工賃の値上げが業界の首を絞める事態となった。綿糸相場も暴落したことから、帆布建値の引き下げが検討され始め、12月半ばより、貫あたり60円程度値下げを実施した。こうしたことから地方の機屋の倒産が相次いだ。
 一方、合繊は好調を維持し、各社が新製品を上市した。ニチボーがラインテントを発売し、合繊テント市場に参入した。日本レイヨンは綿帆布に代わる合繊重布として「ナイロンターポリンT6000」を発売した。大衆化を狙った低価格帯が特長で、用途拡大に繋がる画期的商品であった。7月11日に関西帆布青木工場において関西重布会を招き、説明会が行なわれた。また東洋レーヨン㈱も、ナイロンターポリン3Hを10月1日から発売、同じく低価格帯を売りに全国に普及して行った。
 10月にイタリアからモンテカチーニ社のジウスティニアーニ社長が来日、東京と大阪でポリプロピレンの展示会を実施した。当時「夢の繊維」「最後の繊維」といわれたポリプロピレンは他の合繊に比べ、コストが安くついたので、衣料や寝具のほか、濾過布や帆布、ロープなど工業用に取り入れられるようになった。
 全帆連(稲垣勝蔵会長)は、全日本山岳連盟に対して規格統一の成案を提出していたが、一月十七日に認可された。これに伴い、全帆連内に「登山用テント部会」を設け、三角型、家型A型・B型、方錘型毎に収容人数に応じてシートの面積、ハトメなどで規格を統一するようになった。まだ、登山用テントが業界の製品であった時代の懐かしい話である。
 新製品では広瀬製作所が物干しとテントを一体化した「ヒナタ物干し」を、二葉防水製品は大和紡績のビニロンを使った雨合羽をそれぞれ発売した。特に大和紡績のビニロンはターポリンにも使われるようになり、今まで綿帆布であった牛乳配達袋はビニロンターポリンに取って替わられるようになった。サランの旭化成は、独自にポリプロピレンの開発を行い、同社延岡工場に日産1トンの設備を整えた。
 当時、業界の人手不足は深刻で、小さな個人商店で募集をかけても人が集まらない状況が続いていた。そこで東京天幕雨覆同業組合連合会は、山形県などで説明会を開くなど組合事業の一環として、集団雇用を進める動きも起こった。組合・団体関係では大阪天幕商工会が10月に第18回総会を開催し「大阪帆布製品工業会」と改称した。京都テント工業会は清滝において秋の総会を開催したほか、関西サランテント会は南紀白浜において、北陸、中・四国地区大会を開催した。また、北海道では小樽重布会が新発足し、共同購買や共同受注など相互扶助を目指していく組織も立ち上がった。

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