産繊新聞社

昭和39年

昭和39年

社会での出来事
 前年(昭和38年)10月に福岡県で専売公社社員及び運転手、11月に静岡県で旅館の経営者親子、12月に東京・豊島区で弁護士と5人を殺害した前科四犯の連続殺人魔西口彰が、新年の1月3日熊本県で逮捕された。戦後の自動車普及と道路整備によって凶悪犯罪が広範囲にまたがったこと、さらに各都道府県警の協力が万全では無かったことから犯人がわかりながらも解決に3ヶ月も要したこの事件によって、警察庁は「広域重要事件特別捜査要綱」を策定し、広域犯罪に対処することになった。ちなみに佐木隆三の小説「復讐するは我にあり」はこの事件がモデルとなった。
 10月10日に第18回東京オリンピックが開幕した。94カ国、約5千500人の選手が参加、最終的に日本は金メダル16、銀5、銅8、計29個を獲得した。このオリンピックにあわせて9月17日に羽田~浜松町間にモノレール、27日に日本最長の有料橋、琵琶湖大橋(全長1、350m)、30日に新橋~大門間で都営地下鉄、10月1日東海道新幹線がそれぞれ開通した。
 この年の夏は異常気象。7月18日、山陽地方は豪雨で、死者・不明128人を出した一方、東京は水不足で、「東京砂漠」という言葉が生まれた。
 3月18日、シャープ(当時は早川電機)がトランジスタを、ソニーがダイオードを用いた電子式卓上計算機を発表、当時は50万円台と非常に高価なものであった。4月6日NHKテレビで、風刺も交えた軽快人気人形劇「ひょっこりひょうたん島」の放送が開始、5月15日坂本九の歌う「スキヤキ(上を向いて歩こう)」が、アメリカでゴールデンディスクを受賞した。
 ヒット曲では「恋のバカンス」(ザ・ピーナッツ)、「自動車ショー歌」(小林旭)、「ダニー・ボーイ」(アイ・ジョージ)、「アンコ椿は恋の花」(都はるみ)、「お座敷小唄」(和田弘とマヒナ・スターズ、松尾和子)、「皆の衆」(村田英雄)など。テレビでは「愛と死を見つめて」、「トムとジェリー」が人気となった。
そのほかジャイアンツの長嶋茂雄がオリンピック・コンパニオンの西村亜希子さんと電撃婚約、みゆき族やノースリーブ・ワッペンがブームとなった。12月22日、全国の交通事故死亡者がこれまでの最高記録・昭和36年の1万2865人を突破、史上最高記録となった。
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業界での出来事
 先発、後発をあわせ十数社が合繊テント地を発売し、年頭の初荷は、綿帆布をあわせバラエティーに富んだものになっていたなかで、東京重布会がメーカー側に対して「新柄の売出しを春以降にしてほしい」と要望を出した。問屋筋の帆布売掛金決済が合繊テント地に便乗され長期化する恐れがあったこと、ユーザーとしても正月の縁起物として強制されればつい手を出し、経営を圧迫することなどが理由で、エスカレートする旅行招待付き販売の歯止めの意味もあった。メーカー側は各社でお家事情があったが、できるだけ重布会の要望に沿うと回答した。また、これをきっかけに合繊重布商社会が販売の過当競争防止の観点で設立された。
 この年は人手不足が問題視されだした年。中卒による就職が減ったことも要因で、4社からの求人に対して、求職者は1人と完全なる売り手市場であった。なかでも綿紡業界は、「女工哀史」のイメージが強く、女子従業員の募集をかけても人を集めるのに一苦労、各社で頭を悩ませていた。学卒者の確保が難しいことから、臨時工として中高年者採用するケースが増えていった。こうした中、敷島カンバス㈱と小川テント㈱が提携してビワコ縫製㈱(西代幹社長)なる会社を立ち上げた。人手不足が帆布の最終供給機関であるテント縫製企業の作業能力に限界を生じさせ、このことによって各企業の販売活動に著しい支障をきたしていたことから、この縫製会社が、こなせない加工仕事を援護射撃する目的で設立されたのである。
 一方、このビワコ縫製設立のニュースが業界に大きな波風を立てた。宣伝が不足していたこともあってか、却って業者の商売を脅かすものではないかとの声が業界の中で上がりだし、当時日帆連の会長および東京都帆布製品工業会の会長を務めていた馬場可一氏(小川テント社長)が辞意を表明したのである。表向きは病気並びに一身上の都合であったが、ビワコ縫製の件で小川テントの立場とビワコ縫製の立場で板挟みとなった形であった。4月23日、日帆連とビワコ縫製、敷島カンバス、小川テントが討議し、ビワコ縫製の受注業務は敷島カンバスが行うこと、業務は輸出と官公需に限ることで円満解決した。
 この頃の人手不足は企業の社会保障の考え方にも影響を与え、商社系では企業年金制度の導入も増えてきた。こうした中、太陽工業が業界ではじめて企業年金制と一時金制の併用を採用した。遺族年金も同社独自の加給制をとり、業界企業の社会保障の考え方に少なからぬ影響を与えた。
 順調に推移していた帆布市場であったがこの年の7月より天候不順で需要減退が目立ちだした。北海道の雄としてその名を轟かせた札幌帆布工業が9月に不渡りを出し倒産した。日本経済全体も、不況へと向かい始めていて、暮れになって「日本特殊鋼」「サンウエーブ」など大型倒産(負債1、000万以上)があり、この年の倒産件数は4212件と、戦後最高記録となった。
 テントの規制が厳しくなったのがこの年。当初は道路交通法の規制から道路にはみ出したテントに指導が加えられるようになったが、この年からは消防、美観の観点からの指導に変化してきた。アーケードに使われていた合繊テントも規制の対象で、各地方自治体で規制が強化された。実際神奈川県では、組合に対してアーケードの設置基準が通達され、この中では、アーケードを「路上に相当の区間連続して設けられている公益上必要な建築物」と定義、材質は不燃材、高さは路上4・5m以上(歩道上は例外として3m以上)、アーケードに面する建築物のうち、防火上主な位置にある外壁および軒裏が耐火構造であることなどが盛り込まれた。合繊テントによるアーケードを展開してきた業者にとっては少なからぬ影響があったという。
 合繊帆布の普及と共にテントの縫製にウエルダー加工が注目を集めだしたのが昭和39年あたり。英国・オメガ社が高周波の振動を利用してプラスチックその他繊維状を主体とした殆どの組織を接着できる技術を開発した。
 そのほか業界関係では㈱大谷帆布店の新社屋が6月6日に竣工、10月に、大阪帆布製品工業会(若村三人会長)が臨時総会を開催、商工組合設立へと動いた。高島㈱は10月2日に創業50周年を祝う、祝賀会を東京パレスホテルで開いた。11月、竹村帝商㈱(白井栄次郎社長)が社名を変更、帝人商事㈱が誕生した。

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