産繊新聞社

昭和48年

昭和48年

社会での出来事
 2年前の1971年8月、ニクソン大統領が発表した「ドルと金の交換停止」以降、スミソニアン体制として通貨の多国間調整(金1オンス=35ドル→38ドル、1ドル=360円→308円に切り上げ)と固定相場制の維持が行われてきたが長続きせず、この年の2月、ドル売り殺到で東京外国為替市場が閉鎖、大蔵省は外国為替相場の変動幅制限を停止し、変動相場制に切り替えた。ちなみにこの時点は1ドル=277円だった。
 こうした状況下10月6日に第四次中東戦争が勃発、これを受け、OPEC(石油輸出国機構)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が原油価格を約70%引き上げることを発表、イスラエルの占領地からの撤退を求めて、アメリカをはじめイスラエル支持国に対する供給を抑制する原油生産の段階的削減を決定した。第一次オイルショックの始まりである。当時日本はイスラエル問題に中立の立場であったが、アメリカ合衆国と同盟関係ということで支援国家とみなされる可能性があり、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣、支援国家リストから外すように交渉した。前年の列島改造ブームで日本は地価の高騰などインフが加速していたが、オイルショックによる便乗値上げもあり更なるインフレが加速する事態に発展した。尼崎で起こったトイレットペーパー・パニックを皮切りに、以後各地で買い占め騒動が勃発するのである。12月22日に政府は、石油緊急事態宣言を発令した。
 2月5日、東京・渋谷のコインロッカーから嬰児の死体が発見された。その後も同種の事件が多発、この年だけで46件を数えた。3月20日、熊本地裁において水俣病第一次訴訟の判決が出され患者側が勝訴、また6月24日に厚生省が魚貝類の水銀汚染問題で食べ方規制を発表するなど相変わらず公害関係の話題も多かった。4月6日には祝日法が改正され振替休日制が導入された。7月20日はブルース・リーが香港で急死、8月8日、韓国前大統領候補・金大中氏が東京のホテルから強制連行され行方不明になる事件が起こった。11月14日は関門橋が開通、11月29日に熊本・大洋デパートが火災を起こし130名が死亡した。
 世相を反映してこの年は「節約は美徳」、「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」という言葉が流行、またテレビの影響を受けて「うちのカミさんがね」、「ちょっとだけよ、あんたも好きネ」、「じっと我慢の子であった」などの流行語が生まれた。音楽では「夜空」(五木ひろし)、「危険なふたり」(沢田研二)、「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみ)がヒット、超能力やツチノコがブームとなった。
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業界での出来事
 前年(昭和47年)より帆布の品不足状態が続いていたが、この年の2~3月頃には縫製業者の帆布買占めが激しくなり、さらにトラック業者も製品としてのシートよりも帆布生地を買い占める傾向があった。染色防水及び樹脂加工も値上がりし、合繊帆布は「クレモナ」及び「ニュークラフテル」などが約40%値上げ、さらに合繊テントは「サランテント」が30%値上がりし、それに追随してテイジンテント、クレハロンテント、東洋紡、東レ、ユニチカなども値上げを決めた。これに第一次オイルショックが起こったことで帆布染色防水工賃も11月出荷分より30%値上げ、又鋼材の価格高騰でテント腕金物も平均30%の値上げとなった。縫製業者の耳には「明日にでも重布類の商品は底をつくだろう」というデマが飛び交い、あわてて高いものを仕入れ損をした業者もあった。公害防止の観点から、濾過布の需要が急増したのもこの年の特長で、敷島カンバス及び中尾フィルターの2社はいずれも工場を新築、特に中尾フィルターはスウェーデン製の新設備を導入し、生産能力を拡大した。
 労働省令により公布された職業訓練法の中に帆布製品製造科という項目が設けられた。国家試験による資格であり、日帆連は技能士検定を受けるよう、全国業者に積極的に呼びかけた。この検定試験が各都道府県別に行われるようになり、テント縫製の指導員、一級・二級技能士が誕生、総じてテント縫製技術が向上していく一因となった。
 横浜ドリームランドにおいて、この年テントショウが開かれた。三角型、丸型、ロッジ型などのキャンピングテント、レジャー用テントが展示されたほか、朝日新聞社主催による「探検と冒険博」では、実際に使われた水中テントや南極用テント、海避用イカダテントといった珍しいテントが紹介された。そのほかエベレスト大滑降に使われたスキー用パラシュート、実験用の大気球など関連製品も数多く取り揃えられ、多くの入場者の目を釘付けにした。なお、当時は海外からの輸入品は少なく、国内の吉田テント、小川テント、大阪テント、細野テントなどが協力した。
 この年になると消費者の住宅に対する意識に変化が見られ、一般家庭でも装飾用テントを必要とする傾向が見られだした。先陣を切って高島は2年前(昭和46年)から窓用日除けテント「ウインド・マスター」を試験発売していたが、一時期には品不足に陥るほど好調な売れ行きを見せたため、この年、ミニチュア、チラシなどを製作し、取扱業者の販売支援を行った。規格品であったため、テントを造ることを重視していた業者の一部からはコンペチとして目に映ったが、徐々にテント屋も販売を重視すべきだという声も聞かれだした。また、これに追随して真和鉄工が電池方式で開閉する窓用巻上幌テント「ワンタッチ」を発売した。
 11月7日~12日、大阪国際見本市会場で開かれた「第四回物流と荷役運搬合理化展」で加藤車体工業が、トラックの幌を油圧ポンプとバッテリーで開閉する「ウイングボディー」を出展した。現在のウイングボディーの先駈けで、この後幌からアルミバンへと切り替わる分岐点でもあった。
 大阪の三和縫製は千里ニュータウンの桃山台、竹見台の団地で323張、門真団地に600張、金岡団地に335張、初田団地に225張、千代田金剛団地に80張、その他全部を合わせ計2000張の窓用幌テントを施工した。当時の団地の構造はベランダというものがなく、直接西日が窓から差しこむため、窓用幌テントは、団地の奥さんからは省エネに有効なツールとして大いに重宝がられた。
 新製品では「フランス生まれの綿帆布生地」として東京のABC商会がディクソン・コンスタンツ社製の「コッティーヌ」の輸入を開始した。同社は建材及びインテリアルートに強いコネを持っていて、国内のテント業者とのタイアップで販路拡大を目指した。泉㈱は東レが開発した目止めテープ「タフレイン」を発売した。東レは特殊な吸水膨潤性樹脂からなるテープを防水帆布縫製部分に同時に縫合する方法を提案、漏水防止に効果を発揮した。また、高島は海洋汚染防止にブルーシー・オイルフェンスを開発した。鋳物などの材料難から、巻上機で新製品開発を研究していた後藤工業は、この年強化プラスチックを使用したプラスチック製チェーン巻上機及び新型小文化巻上機を発売している。
 業界関連では、奈良県帆布製品協同組合と熊本県帆布製品工業協同組合が任意団体から公認組合となり、奈良県は初代理事長に金田正男氏(スペースデザイン丸金)、熊本県は荻春雄氏(文化テント)が就任した。また、淡路島の橋本テント商会は創業50周年、名古屋のスワテント工芸は10周年を迎え祝宴を開いた。東北地区6県が団結してオイルショックの難局を乗り切ろうと大勝商店の大橋十久満治氏を会長に、東北帆布製品工業振興会が誕生した。訃報では増田清商店の増田清松会長が10月21日、急性肺炎で亡くなられた。

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