産繊新聞社

昭和50年

昭和50年

社会での出来事
 オイルショックにより停滞していた日本経済はこの年の4月~6月に鉱工業生産が増加に転じ、さらに消費面からも政府の物価安定目標が達成されことで、物価は一段と沈静化基調を示し、消費支出も増加に転じた。昭和48年から続いていた不況は一応この年の3月に底入りしたといわれたが、夏から年末近くまで横這い状態が続いた。通産省(現・経済産業省)は第四次不況対策の効果が現れるまでのつなぎとして中小企業向けの緊急融資制度を設けたが、3月の期末で軒並み赤字決算で、9月の半期決算でも状況が改善されない紡績業界各社は、この融資制度を利用する企業が続出した。。
 元旦、長野県青木湖にスキーバスが転落、24人が死亡する痛ましい事故が起こった。3月10日には山陽新幹線が博多まで開通、昭和45年2月着工から5年、これにより新幹線は東京~博多間1619㌔を6時間56分で結ぶ大動脈となった。4月1日、東洋工業がCIを導入、同時に現在の「Mazda」マークの使用を開始した。4月4日、マイクロソフト社が設立、30日はサイゴン陥落によりベトナム戦争が終結した。6月3日、佐藤栄作前首相が逝去され、16日に国民葬が行なわれた。7月8日京都・第一勧銀百万遍支店で起こった5300万円強奪事件や7月20日、足利銀行栃木支店で2億円を横領した大竹章子が逮捕されるなど銀行を舞台にした事件が多く発生、12月10日午前零時には昭和43年に起こった三億円事件の時効が成立した。
 スポーツでは大関貴ノ花が春場所千秋楽優勝決定戦で横綱北の湖を破り初優勝した。7月5日、沢松和子が日系三世のアン清村と組んだ女子ダブルスで全英テニス日本女性初の優勝を遂げ、これを機に日本では空前のテニスブームが始まった。プロ野球ではセリーグで広島東洋カープがリーグ優勝した。球団初の外国人監督としてジョー・ルーツが就任、途中退団も後任の古葉竹識氏が中日、阪神と熾烈なペナントレースを演じ制した。燃える闘志を表す意味をこめて帽子やヘルメットの色が赤になり「赤ヘル軍団」との異名をとった。
 ハローキティーの初号グッズビニール製のがま口「プチパース」が発売されたのがこの年の3月のことだった。(当時定価・240円)。住宅不況の中で積水化学工業が発売したユニット住宅・セキスイハイムが人気となり7000戸を実売、使い捨てライターの「チルチルミチル」(東海精器)が人気となり、月間600万~700万個販売された。
 「おじゃまむし」、「オヨヨ(桂三枝)」、「死刑(漫画・ガキデカ内ギャグ)」のほか、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットしその歌詞の「あんたあの娘のなんなのさ」も流行語となった。ヒット曲では「年下の男の子」(キャンディーズ)、「22才の別れ」(風)など。
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 戦後最大といわれる繊維不況の中で、綿紡各社の4月決算は最悪となった。日清紡績、倉敷紡績、大和紡績、敷島紡績、オーミケンシの5社は、ジーンズ、プリント製品が比較的順調であった倉敷紡績を除き、売上総利益段階で赤字、操短資金などの借入金が増え、金利負担が大幅に増加した。経常損益では大和紡績の60億円を筆頭に各社とも大幅な欠損となった。こうした状況から謝恩セールで恒例となった旅行会を取り止めるメーカーが続出した。
 沖縄国際海洋博覧会が7月19日に開幕した(昭和51年1月18日まで)。「海―その望ましい未来」をテーマに日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加、展示施設の中で最大の目玉とされたのが、未来型海洋都市のモデルとなる人工島「アクアポリス」で、その檣(ほばしら)部分に大阪テントがテンション構造のテント2基を取り付けた。ただ、博覧会自体は不評で入場者は450万人の目標に対し350万人程度にとどまった。また、海洋博とともに大幅な開発が行われたが、赤土が珊瑚礁の海に流れ被害を出すなど海洋汚染も引き起こした。
 昭和48年あたりから、軒先で使うテントは鮮やかな色彩や花柄、抽象模様柄がトレンドとなっていた。国産品では鐘紡のベルフラワー、東レのセビアン、ユニチカのライン・ストロングテントなどが、輸入品ではフェラーリ社のエストロイル、クーレイ社のアーマーシェルなどが発売されていたが、いずれもポリエステル、テトロンかビニロンフィラメントをベースクロスとして花柄をプリントしたもの。こうした中、ディクソン社のコッティーヌだけは綿100%織物の花柄プリントであったが、この年の2月、国産で初めて東洋繊維㈱が綿100%の「トスコット」を発売した。また、これらに追随して、テイジンは織物タイプとターポリンタイプの花柄テント地を、クラレはパロニィテントで花柄を発売した。
 当時、芯地に不燃材を使っていてもその表面の加工に使われる仕上げ材は不燃といえないものでも売り込みの際には「不燃」という言葉を使っていた商品があった。施工する側はこうしたことがわからず、ガソリンスタンドなどに使うケースがあったが、危険物取扱規制ではすべてNGであり、撤去を命じられるケースが増えてきたため、大阪府帆布製品工組はテントメーカーからの聞き取り調査を実施した。
 新製品ではクラレとホルチカは不織布を利用し園芸・農林業向けに除草用シート、根巻用クロスなどを発売した。美羊製作所は強風時に足元を外側に開き、安定度を高める「ニューフレームキット」を開発、テント業者がねじ回しとハンマーでJIS規格組立式テントを完成させるユニット形式での販売方式を取った。都化工はハイパロンを用いてコーティングしたクリーンコートを発売した。
 当時輸入帆布や賃織生産の帆布が市場に流れ「安かろう、悪かろう」の風潮が巷に現れていたが、こうした状況の打破を目指し関西重布会は、自社が取り扱う綿帆布に品質保証のラベルを貼付して出荷するサービスを始めた。各社別に登録番号を書き入れ販売の責任の所在を明確にしたことは、安心を消費者に届ける画期的な取り組みでもあった。
 昭和31年個人向けの分譲マンション「四谷コーポラス」が登場して以来、マンションの大量供給が始まっていたが、昭和50年になると高層マンションから子供が転落する事故が頻発した。マンションの構造(手すりの高さに問題があったが、皮肉にも屋外広告物法や道路法で規制の対象となっていた軒先テントの上に落ちることで命を救われるという出来事が頻発した。
 省力化の時代を反映してコイン式自動販売機の設置が進んだのが、この年の大きな出来事。ちなみに日本コカコーラがホット&コールドコンビネーション機として、「カップベンディングマシン」を開発したのも昭和50年であった。国道沿いにはジュース、タバコやカップめん、菓子など多種の自販機を1ヶ所に集めた「コインスナック」が数多く見かけるようになったが、その上屋にテントが取り付けられるケースが増え、業界ではひとつの市場として取り組む企業も見られだした。
 業界関係では岡山県、広島県東部地区、島根県、鳥取県合同で運営されていた東中国テント工業会から岡山県が独立、1月13日、岡山県テント工業組合が新たに設立された(初代理事長・瀬崎諒一氏)。5月18日の日帆連総会では、新しい会長に北海道の山本正吉氏が選出された。ツダ㈱の懇親組織・真田会の第1回総会が3月29日、大阪・南区(現・中央区)の鳥よしで開催された。また愛知県組合の総会が5月11日に開かれ、2月に亡くなられた村山賢治氏に代わり、新理事長に横山太氏が就任した。高島㈱の創業60周年記念祝賀会が東京は10月6日帝国ホテルで、大阪は13日ロイヤルホテルで開かれた。㈱タカラの若村三人氏が勲五等瑞宝章を受章、11月29日に大阪・ロイヤルホテルで叙勲パーティーが開かれた。11月14日、東京・東商ビルにおいて八千代会の経営研究会が開かれ、川崎巽氏(矢野テント社長)が「わが社の経営について」をテーマに講演した。10月4日、大阪府帆布製品工業組合(友永勝理事長)の秋季総会が大阪・高石市の「新東洋」で開かれた。不況下であったが、会場横の空き地を利用して協賛メーカーによるテント関連の新製品展示が行なわれテント屋とメーカーとの積極的な意見交換の場に利用された。
 訃報では2月8日に星高工業㈱の小畑時次郎社長が、2月16日に名古屋・㈱村山商会の村山賢治社長が、6月8日に東京・古川㈱の古川岩太郎会長が、6月24日に岡山・瀬崎商会の瀬崎誠而会長が、11月28日に㈱吉岡商店(兵庫県神戸市)の吉岡啓三社長が逝去された(89歳)。

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