産繊新聞社

昭和56年

昭和56年

社会での出来事 
 前年(昭和55年)12月中旬からオホーツク海に停滞した低気圧で日本は強い冬型の気圧配置が続き、同年3月まで、東北地方から北近畿まで大雪に見舞われた。住宅全壊などで東北では死者が115名を数え、「五六豪雪」と呼ばれた。
 6月15日、パリの警視庁がオランダ人女性留学生の殺害容疑で佐川一政容疑者を逮捕した。当時、死体切断・肉片を食したとして日本で大きな話題となった猟奇的事件であった。その二日後の6月17日、東京・深川で通行人4人を刺殺、1人を人質に籠城した川俣軍司が逮捕された。この年は覚せい剤乱用の第二次ピーク時。取締法違反で2万5千人が検挙されたが、川俣も覚せい剤中毒者のひとりであった。7月3日、ニューヨーク・タイムズ紙が原因不明のガンが41名の同性愛者より発見されたと報道した。はじめてのエイズ(後天性免疫不全症候群)の症例報告でその後世界各国で同じ症例が報告された。日本では昭和60年にはじめて患者が確認された。
 大きな事件では9月5日、三和銀行の大阪・茨木支店行員・伊藤素子が1億3000万円を使い込んでいたことが判明、8日にマニラで逮捕された。また、ロス疑惑の当事者・三浦和義と妻の一美さんが銃撃されたのが11月18日のことであった。
 そのほかライシャワー元駐日アメリカ大使が「日米間了解の下で、米国海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」と発言、「非核三原則」違反を駐日大使が認めたとして日本国内で論議が拡大した(ライシャワー発言)。英国・チャールズ皇太子とスペンサー・ダイアナ氏がロンドンのセントポール寺院で挙式を挙げた(7月29日)。また日本電気と新日本電気が国産ではじめて10万円を切るパソコン「PC―6001」を9月21日発表、10月19日福井謙一氏がノーベル化学賞を受賞している。
 ヒット曲では「ルビーの指環」(寺尾聰)、「長い夜」(松山千春)、「チェリーブロッサム」(松田聖子)など。「なめネコ」人気や「ノーパン喫茶」が全盛となったのもこの年で、「クリスタル族」、「ハエハエ、カカカ、キンチョール」などが流行語に。黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が発刊され750万部を超えるベストセラーとなった。そのほか10月30日付けで写真週刊誌「FOCUS」が創刊、野球では阪神の江本孟紀選手が「ベンチがアホやから野球がでけへん」と引退、日本シリーズでは巨人が8年ぶりに日本一になった。また10月28日のロッキード事件裁判で元秘書の榎本三恵子が供述を一転、田中角栄元首相に不正な金が渡っていたことを供述し当時「蜂の一刺し」といわれた。ヒット曲ではセーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子、ハローグッバイ/柏原よしえなど。
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業界での出来事
 昭和54年(1979年)の第二次オイルショックによって、原油価格は第一次並みに跳ね上がったが、省エネなどが浸透していたこともあり、日本社会への影響は第一次ほどではなかったが、欧州やアメリカなど先進各国は個人消費が伸びたフランス以外、軒並み景気後退色が濃くなっていた。輸出に頼っていた日本経済の中でも特に製造業が苦戦、さらに公共投資も前年(昭和55年)に前倒ししていたことから、景気は悪化の一途をたどっていた。56年第4四半期は、実質GNPがマイナスとなり、年間でみても3%を切る(2・9%)など、昭和50年代の中でも最も低い数字となった。業界でも大手合繊の9月決算で、全ての企業の売上が前期を下回り、さらに綿紡業界は生産の集約が求められ、設備の縮小を余儀なくされた。
 こうした経済状況であったが、この年、のちの地方博覧会ブームの火付け役となる神戸ポートアイランド博覧会が3月20日開幕した(9月15日まで)。期間中1600万人を超える入場者で賑わい、純利益も60億円。跡地は住宅地として活用されるなど、当時神戸は「株式会社神戸市」と称された。同博覧会に太陽工業㈱はメローシステムを使った国際広場テント構造やサーカステントなど多くの膜構造物を施工した。
 昭和56年はゼネコンがドーム建築に興味を持ちだした年。山邦鉄工は仏・デュラファー社と技術提携を行い、多目的スポーツ施設用ドーム「トーネセルドーム」の国内販売権を取得した。また、竹中工務店は、米国・ガイガー・バーガー社の大空間膜構造建築技術を導入することで基本合意している。時代はバブル景気が始まる5年前。膜構造建築技術は、この後、国や自治体の大規模公共施設建築に使われていくのである。
 その一方、テントが持つ簡易で移動できるという特長に目を向ける動きも見られた。京阪神在住の現代美術家が中心となって運営するテントの美術館が兵庫・夙川沿いにお目見え、「架空通信テント美術館」として人気を博した。ハコモノの美術館はどうしても上流階級の人しか足が向かないが、テントなら気取らぬ空間が作れ、一般の人にも美術を身近に感じてもらえるというのが主催者側の狙い。「明るいテントの下でみる作品は趣が違い、運営側からするとキャラバンのように全国で美術を楽しんでもらえる」と総じて好評で、ある意味有期限建築の先駈けでもあった。
 トラック輸送業界は過積防止法の徹底や慢性化した交通渋滞による稼働率の低下、燃料の高騰、その一方景気の冷え込みによる荷主からの運賃の値引き要請など日毎に経営環境が悪化していた。そんな中、四国装備販売㈱は荷役作業の合理化を目指し全面開放が出来るジャバラ型「アコーディオン・ホロー」を発売した。骨組みがスライドできる構造からトラックの二台だけでなく、ガレージなどにも利用された。新製品では日本エンジニア・サービスが不燃のテント地「ニューファイア・ストップ」を、泉㈱は再帰反射布「マービロンフラッシュ」や断熱フィルム「ルミクールS」をそれぞれ発売した。
 この年、海外のオーニングを輸入しようという動きが活発化した。すでに宮帆実業が「フランシア・バーネ」を輸入していたが、これに続けとばかり、サラシナがイタリア・リリ社のコーベル型、フレキシブル型オーニングを、関西帆布化学防水が西独・ワイナー社のオーニングを、兼松江商がスイス・グリーサー社オーニングの輸入・販売を開始した。国産オーニングも昭和53年電動式オーニング「エルバーネ」を発売した文化シャッター、昭和54年電動式開閉テント「ルーフデル」を発売したヤマテン、さらにこの年、「サンパーラ」を発売したサンテンダーなど国産メーカーも含めて開閉が出来るというオーニングのフレキシブル性が好まれだした。こうした流れからフランスのデイカ・ソムフィ社が日本市場に参入することを発表、テント、シャッター、ブラインド用モーターの販売を開始している。一方、価格面から手動式オーニングを好む店舗オーナーも多かったが、こうした市場に後藤工業が1・5キロの小型巻上機「アクター」を発売した。当時は商業施設の日除け・雨除けとして使われることが多かったが、一般家庭の認知も少しずつ進みつつあった。その一方、意識改革の必要性に迫られたのがテント業界。今までは金物と生地からテントを「作る」のが同業界の特長であったが、建築物ファサードの高級志向や可動式オーニングの普及によって「売る」商売への転換が求められたのである。
 この年「PC―6001」が発売されるとともに、同じくNECより「PC―8801」、富士通より「FM―8」が発売されたが、まだゲーム機に毛が生えたようなものであった。そうした流れの中で太陽工業はデザインや大型テントの図面製作のためのコンピューター研究会を立ち上げた。メロートラス状図面、アルプステント図面作成プログラムなどを開発、業界に先駆けコンピューター化に取り組んだ。
 叙勲では春に西村テント商会社長で元東京天幕雨覆商工協同組合理事長の西村要氏が勲五等瑞宝章、小峰ハンプ㈱会長で日本帆布製品工業会連合会第四代会長の小峰徹氏が藍綬褒章をそれぞれ受章。秋は、東京の吉田喜義商店社長・吉田喜義氏が勲六等単光旭日章を受章した。
 組合関連では広島県帆布製品工業組合が中国帆布製品工業会、東中国テント工業会を一本化し発足、その設立総会が2月7日、広島市内のもみじ会館で開かれた(初代理事長・原茂氏)。また、石川県もテント商工会を発展的に解散、新たに法人化した石川県帆布製品工業組合が発足した(2月21日、初代理事長・田村博氏)。
訃報ではキャンバス・チバの千葉徳栄社長が1月26日に、兵庫工組理事長で白石帆布縫製工業㈱の白石芳雄社長が6月4日に、小川テントの馬場可一社長が逝去された。

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