産繊新聞社

昭和57年

昭和57年

社会での出来事
 2月8日午前3時24分、東京赤坂のホテル・ニュージャパンにおいて火災が発生し、ホテルの宿泊客を中心に死者33名・負傷者34名を出す大惨事となった。宿泊していたイギリス人の男性宿泊客の寝タバコが直接の原因であったが、延焼範囲が広がったのは①度重なる消防当局の指導にもかかわらず、スプリンクラー設備などの消防設備を一切設置しなかった、②火災報知機も故障したままの放置状態だった―などホテル側の安全軽視とずさんな経営が指摘された。その翌日の2月9日、日航機福岡発東京行350便が羽田空港に着陸直前、海中に墜落、24名が死亡した。機長が、エンジン4基のうち2基の逆噴射装置を作動させる操作を行ったことが原因であったが、当時機長は心身症の治療中で刑事責任は問えないとして裁判では不起訴処分となった。
 下半期に入ると台風、豪雨など多くの自然災害に見舞われた。7月23日から翌24日未明にかけて、長崎県長崎市を中心に集中豪雨が発生、死者・行方不明者で299名を数えた。また、8月2日の台風10号が愛知県に上陸、死者・行方不明者が95名に上ったほか、国鉄富士川鉄橋が流失するなどライフラインにも大きな影響を及ぼした。その約1ヶ月後の9月12には台風18号が東日本を縦断、死者が22名出るなど全国で被害を出したことが特長であった。
 この年は荒れる卒業式が問題に。全国中・高校637校で学校側の要請により警官立入り警戒する事態となった。また若者がかかわる犯罪も多発、特に横浜で12月中頃から16歳から14歳の少年10人が、「風太郎狩りゲーム」と称して、公園などで寝泊りしている浮浪者を襲撃するショッキングな事件は象徴的なものであった。逮捕後も「乞食が死んだくらいでなぜそんなに騒ぐのか」、「乞食なんて生きていたってしょうがないでしょう」と発言するなど反省が見られず、この残忍な少年犯罪は社会問題化していく。
 4月1日に500円硬貨が発行、5月には富士通が、初めて100万円を切る日本語ワープロ「マイオアシス」を発売した。6月26日、新聞各紙が文部省の教科書検定結果を報告、その中の第二次世界大戦の表記で「侵略」を「進出」に変更したことが大問題となった。7月26日、中国政府が公式に抗議、韓国でも反発が拡大した。日本政府は8月26日、『「歴史教科書」に関する宮澤喜一内閣官房長官談話』を発表した。9月14日、モナコにおいてグレース王妃が自動車事故で死亡、12月12日、戸塚ヨットスクールで訓練中の中学生が死亡する事件が起こった。
 ヒット曲では「北酒場」(細川たかし)、「渚のバルコニー」(松田聖子)、「待つわ」(あみん)など。ゲートボールや国鉄のフルムーン企画などがヒット、〝熟年〟 のレジャーブームがひとつの市場となったほか、エアロビクス・ダンスが人気となった。そのほか10月4日にフジテレビで笑っていいともが放送開始、12月には電電公社が初のカード式公衆電話を設置した。
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業界での出来事
 昭和57年は第2次石油危機後の景気停滞長期化を反映して実質経済成長率は3・0%(55年は4・8%、56年は3・8%)と引き続き低迷した。個人消費だけを見ると57年には前年比4・2%増であったが、輸出が世界経済の停滞、貿易摩擦の激化などから前年比3・2%増(56年は15・9%増)にとどまり、外需の経済成長率への寄与率が大幅に低下していた。。昭和55年から続いている不況は、実に3年間(36ヶ月)にのぼり、特に名前は付けられなかったが、期間としては戦後最長の長さであった。主要19業種の大企業の景況調査では輸出関連企業の大半が悪化と答え、繊維関連でも合繊、綿糸関連は大不振、岡山の恵藤織物工業など倒産の憂き目に会う企業も出てきた。綿紡業界は発展途上国の攻勢もあって過剰設備の再廃棄を関係省庁と折衝する事態となった。
 昭和43年に北海道では100年記念北海道大博覧会が開かれたが、その14年後のこの年、再び博覧会が開かれ(6月12日~8月22日)、道民人口の半分にあたる267万人という空前の入場者数を記録した。パビリオンはテーマ館と3つのサブテーマ館、16の企業展示館からなっていたが、仮設という点で多くの膜構造が採用された。ただ、テーマはオイルショックを経ての低成長の時代に開かれた博覧会であっただけに、3つのサブテーマ館では食糧、エネルギー、北方圏というやや堅い問題を扱うなど、昭和55年までの博覧会とは一線を画す内容であった。
 太陽工業は米国のバードエアー社と巨大膜構造物製作及び施工に関する技術提携を結び8月1日に正式調印した。スポーツ施設の膜構造物が注目を集めていた時期での調印で日本の膜技術発展の一歩となる出来事であった。
 商店エントランスの軒およびファサードというとテントで構築するのが一般的であったが、この頃になるとアクリル板やアルミ製の軒、ファサードも多く見かけられるようになった。技術革新でアクリル板でも湾曲面が出せるようになったこと、色彩や柄などが出せるようになったことが要因であったが、関西圏で採用されるケースが増え、徐々に業界の脅威になっていった。こうした中、オーニングは好調、九条公設市場(大阪市港区)ではサンパーラ20台、コーベル4台が採用された。また商店街で古いアーケードを撤去し、店舗に統一したオーニングを取り付ける動きが出てきたのもこの年の特長。高松の塩屋町商店街及び通町商店街は、明るい街づくりを目的として5月から8月にかけて35台のエルバーネを取り付けた(㈱イシハラ施工)。オーニングはこの後、商店販売への主力製品となっていくのである。
 この頃は住宅に関連するエクステリア製品で、テントを使ったものが多く見られた。京浜テント製作所(廃業)は、現在はアルミが中心となっている物置用途やポリカ素材が中心のカーポート用途に組立式テントボックスやテント式ガレージを発売、折り畳みができるという特長が消費者に受け入れられた。また、トラックでは積み込み・荷降ろしの省力化からでウイング車に人気が集まっていたが、内蔵式圧縮コイルばねによるシート素材のウイング車を細川産業、星野商店、双葉商会より発売された。
 新製品ではクラレがトラックシート用軽量キャンバス「クラフテル帆布L(エル)」を発売、軽量化以外でも優れた防水性、寸法安定性、ウエルダー・ライスター加工が可能な加工性から全国の多くの物流企業で採用された。また、東レもテトロン軽量帆布「トレダック4H」を発売した。また、愛知県春日井市の石垣テントは、上から見れば六角形のファニーテント「やまなみ」を開発した。日本ワグナー・スプレーテック社は装飾テントの塗装に用いる静電塗装機を発売、効率よくパイプにスプレーすることから人気を博した。山本ビニターは懸架式高周波ウエルダー「YU―7000」を、俣野はオリジナル商品として開閉式テント「サンシェルター」を、またアルミ枠のアクリル板テント「サンルーフ」をハンプオオタニが発売した。
 この頃は省力化がひとつのテーマ。セイコーミシンはミシンスタイルの超音波ウエルダーを、三福商事は、熱風溶着機「シートメンダー」をタイラ産業が自動カシメ機「タイラバイター」を発売した。
 業界では大阪府帆布製品工業組合(友永勝理事長)の青年部会が発会、2月24日に共済会館新大阪において設立総会が開催された。近代的経営、最新技術を身につけた経営者を輩出することを目的に、その後講演会や勉強会が開かれた。初代会長には片岡満氏が就任、当初は46名の会員が集まった。また、(社)日本膜構造協会(能村龍太郎会長)は東京と大阪で膜構造セミナーを開催、膜の文化(黒川雅之建築設計事務所・黒川雅之氏)、膜構造と風(河村純夫大阪市大工学部教授)、膜構造の展望(石井一夫横浜国大工学部助教授)の3氏による講演会が開かれ、両会場で300名が受講した。東西の青年部及びテント技術研究団体4団体(東天協青年部、大阪帆布工組青年部、関膜研、東海ブロックテント研究会)が一堂に会し、愛知県で合同研修会を、9月5日に開催した。特別講演会では「名古屋商法について」を地元名古屋でスーパーを展開するユニーの西川社長が講演したが、オブザーバーに京都工組、三重工組、岐阜工組の青年部が参加、これが工連青年部会の立ち上げに繋がっていくのである。また、ガラス繊維テフロン膜が大型膜構造に使われだしたことから、関西膜構造研究会や大阪工組青年部などが中興化成工業の担当者を招き、盛んに勉強会を開催した。
 春の褒章で、数々のテントを考案したとして、能村博正氏(太陽工業㈱)が、藍綬褒章を受章した。

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