産繊新聞社

昭和62年

昭和62年

社会での出来事
 昭和62年の出来事として一番思い出深いのが中曽根内閣の実施した国鉄の民営化である。モータリゼーションの進展で地方では鉄道離れが起こり、さらに人件費の高騰もあってで、国鉄は東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)から赤字に転落していた。さらにインフレを嫌って政府が運賃の値上げを抑制、民業を圧迫するという理由で他業種への参入もままならず累積債務は37兆円に達していた。国鉄は分割民営化によって、その事業等を12の法人に承継(4月1日発足)したが、真の目的は労働組合の解体にあったといわれている。
 7月23日、東京で最高気温35・9℃を観測。猛暑のため電力需要が急速に伸び、昼休み明け、一時、1分当たり40万kW上昇した。需要の伸びに伴って無効電力も急速に伸び、午後1時7分、電力用コンデンサの全量を投入したが、無効電力の伸びに追いつかず基幹系の変電所が停電、それに伴い配下の変電所が停電した。日本では1965年の関西系統停電以来の大規模な停電であった。
 ときはバブル絶頂期。2月10日、上場したNTT株が160万円の初値をつけた。3月30日、安田火災がゴッホの絵画「ひまわり」を53億円で落札したが、国内では金余りの日本を世界にさらしたとか、損保企業の購入としてはあまりにも巨額過ぎるなど批判も噴出した。その一方、10月19日月曜日、ニューヨーク株式市場でダウ30種平均の終値が前週末より500ドル以上も下がり、世界恐慌の引き金となった1929年の暗黒の木曜日を上回った。「ブラックマンデー」といわれ、これがアジア各市場に連鎖し、日経平均株価が3800円を超える下げ幅の過去最大の暴落となった(2万1千910円)。しかし、このときの証券市場の激震は、その後の金融当局による適切な対応によって、実体経済へは甚大な被害をもたらすまでにはいたらなかった。
 アサヒビールがスーパードライを発売したのが3月17日のこと。23日には任天堂のファミコンが国内出荷累計1000万台を突破した。6月12日に開かれた郷ひろみ・二谷友里恵結婚式がテレビで中継されたが、視聴率が驚異の47%を記録した。7月9日、日本人の平均寿命が男性75・23歳、女性80・93歳となり、男女そろって世界最高水準の長寿国となった。7月17日、俳優・石原裕次郎が死去、また9月22日、天皇陛下が腸の閉塞で手術された。12月27日、横綱双羽黒が生活態度を注意されたことに立腹し、親方夫人と後援会長に暴力をふるい失踪する事件が起こった。
 ヒット曲ではろくなもんじゃねえ/長渕剛、愚か者/近藤昌彦など。書籍ではサラダ記念日/俵万智)(河出書房新社)がベストセラーとなった。
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業界での出来事
 前年11月に底を打った景気は同年に入って緩やかな回復を示した。その一方、為替相場は4月末に130円台まで上昇した。内需、とりわけ住宅建設や個人消費は堅調であったが、外需は円高の影響で輸出が低迷、輸入は急増したことから、実質GNPはゼロ成長となった。こうしたことから政府は内需を中心として景気の積極的な拡大を図るため、6兆円規模の「緊急経済対策」を決定、為替相場の安定に好影響を与え、また建設を中心に需要増加の期待をもたらし、企業の先行き見通しを改善させる一因となった。7~9月期に入ると、日本の経済環境は大きく好転し、景気は急速に回復していった。個人消費の伸び、住宅の着工件数の一段と高い伸びに加え、「緊急経済対策」の効果もあって実質GNPは年率8%の高成長となった。企業収益も改善し、景況感も改善傾向を示し始め、設備投資についても計画を上方修正する動きがみられた。円高の進行も内需の急拡大のなかで企業はその影響を吸収し、あまり問題化されず、さらに、円高によって輸入業者各社が〝差益還元〟セールを実施、卸売物価は安定した。
 この頃の業界の話題は、翌年(昭和63年)完成予定の東京ドームに注目が集まった。同物件は小石川後楽園庭園への日影制限、庭園からの景観の配慮などで地下部とアリーナを約5m掘り下げ、屋根は庭園側に傾斜させた構造で、5月より膜張り工事が着手され、6月28日早朝、ついに巨大な卵形の大屋根が膨らんだ。その一方、ソウルオリンピック(昭和63年9月17日~10月2日開催)のフェンシング会場として使われる予定の膜構造施設で、コンプレッションポストの調整中ワイヤーが外れ、アメリカと韓国の3人の技師が跳ね飛ばされて亡くなる事故が起こった。国外の事故であったが、国内でも少なからぬ衝撃を与え、安全衛生の見直しが強く意識されるようになった。
 地域活性化の切り札として持て囃された博覧会は、「博覧会は儲かる」という誤った考えに陥った各地方自治体の役人達が、内容を吟味しない中で博覧会を計画、この頃になるとマンネリ化によって次第に客足が遠のいていく原因になった。7月18日から仙台市港地区で開かれた「未来の東北博覧会」は、テーマがはっきりと定まっておらず物産展とさほど変わりがないと批判も起こった。その一方、民間主導型の博覧会は狭い範囲でテーマを決めたこともあり、大人気となった。東京・晴海と大阪・南港で同時開催されたニューメディアをテーマとしたコミュニケーションカーニバル「夢工場」や命をテーマとして恐竜やマンモスのミイラを展示した「天王寺博覧会」などは連日大賑わいとなった。ただ、批判はありながらも博覧会ブームは業界にとって間違いなくプラスであった。
 この頃になるとサイン関係で、商店舗向けとして、バックリット看板に注目が集まりだした。火をつけたのが韓国で、翌年開かれるソウルオリンピックにむけて街並み整備が行われた中で、夜間でもアイキャッチ効果が高いバックリットが採用されていったが、この傾向は日本にも波及した。同じ時期にカッティングマシンが普及しだしたことで、その流れは顕著なものとなった。平岡織染がバックリットテント地を発売、また協立工業は軒先テントとバックリットを併用したプリズマックスシステムの販売・施工に取り組んだ。その一方、今では普通となった屋外広告物法の広告面積の規制は、4月に東京都が実施したのがはじまり。当時はまだインクジェットが普及しておらず、文字ベースの広告幕が中心で、さらに壁面いっぱいに施工され景観を害していたことから、表示面積の合計は壁面積の10分の3以下と取り決められた。
 この年業界では技術向上に関して様々な取り組みがなされた。大阪帆工は技能士会と共同で膜構造の一般規準の研修会を開催、日帆工連は5月に製品、縫製、設計・製図や構造力学など技術の参考書「新・テント技術」を発刊した。サンオウはマイスタージャパン研修会としてフレームの組立やカッティングシート文字張りなど実技を通して講習した。
 新製品では高島がプールの水面上にフィルムを浮かべ水温を上昇させプールの使用期間を大幅に伸ばせる「プールサニーコート」を、帝人はバックリット生地「ルナシャイン」、表面はエンボス仕上げ、裏面は細かい菱型模様をあしらったテント地「マリエールⅡ」、透明膜材「サニーメイト」の三種を、アキレスが透明帯電フィルム「セイデンクリスタル」をそれぞれ開発、販売を開始した。また、矢崎化工はAAS樹脂を被覆した鋼鉄製パイプとAAS樹脂を被覆したプラスチック製ジョイント部を組み合わせてテントフレームを作る「イレクターテントフレーム」を発表、省力・低コストの特長から商店のテントに採用されていった。
 業界団体関連では青年部が中心となり、第五回テント業界合同交流会が2月21日~22日、大阪のチサンホテルで開かれた。また関西重布会は5月13日から3泊4日で韓国視察としてターポリンやPP&PE、縫製工場視察を実施した。
 そのほかフジタ工業はサスペンションの開閉式膜構造「サンライトドーム」大和ハウスは空気膜構造物の実験棟をならに作るなどこの年、大型膜構造の研究に各ゼネコンが取り組んだ。
 業界関連では日帆工連青年部会の設立総会が9月15日に開かれ、初代会長に水井達興氏が就任、関西重布会は創立35周年記念式典を12月に開いた。
 訃報では元東天協理事長の西村要氏(西村テント商会)が11月24日逝去された。

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