産繊新聞社

晩年の松右衛門

晩年の松右衛門

文化6年(1809年)、大納言大炊御門家より会見申込の書状が松右衛門に届いた。
 「未得拝面借得共乍憚以愚藉ヲ令啓紙先以大署中無御障被成御座候御清康候旨奉喜候誠ニ貴君秀智之風評到京師我君初トシテ深被為成堪賞何卒野拙ヘ一応御面会被成下様曲而所希候乍併御繁多之儀奉察申候随テ拙者事貴殿エ一度ニモセヨ拝面仕度其由来ハ主人大納言殿御儀御願之筋候得者此度貴尉御開基新湊之風説御物語ヲモ聞マ欲ク然者御哥枕之便共成ラメト無拠予ニ被為命偏令御対面候ハバ君之御感悦モ斜奴彼本懐ヲモ達シ可申条仕合ト奉存候間右之段奉希上候情々謹言
 大炊御門家 木村主計 工楽松右衛門様」
 松右衛門の名声、ついに禁襄に達し大納言家がぜひ面会したいという申込の書状である。誠に盛名宇内に晋しである。偉なる哉。
 さて、この大納言家の会見の申し入れのあった翌年の文化7年、松右衛門は68歳の高齢を迎えたが、今度は港の改修の話が舞い込んできた。高砂の入江(高砂川といわれた)は土砂の為年々水深を減じ、遂には船舶の出入、碇泊に著しき不便を訴うるようになった。村民は村の死活問題として、高砂港口の改修の急務を唱え出し、松翁の技術を頼って目的を達するほかなしと信じた。藩主もまた、老齢ながら翁の他にこの種工事を託すべき人物なしと考え、翁を諭して川浚晋請に従うべきを命じた。
 多年海運の業を営み、殊に蝦夷地の貿易にまで従事してきた松翁としてもその郷里・高砂の盛衰に重大な影響を及ぼすべき、同港の水深の激減に対しては到底黙視することができなかった。そこで、身の老いたるを顧みず、奮然たちてこの難工事を引き受け、爾来櫛風、浴雨艱苦を浚い、工事を督励し、僅か年余の間に竣工を遂げたのであった。藩主はその功労を賞して、五人扶持並びに金十両を賜与されたが、之にもまして狂喜したのは村民であったことは言うまでもない。
 「松右衛門、其方儀高砂川浚晋請向致出精候付是迄被下置候下行米御扶持方ニ引直五人扶持御切府金十両被下置御水主並一代限被召抱御廻船船頭被仰付奉行支配高砂住居被仰仕候」
 殿様も余程の御慶びとあって、平たく申さば御座船の船長に抜擢というところであろう。
 大蔵永常著農具便利論の一節には左記のごとくこの工事につき絶賛の辞を贈っている。
 「六十五歳の頃、産所高砂湊並に川浚ヘ晋請橋梁に地頭より命ぜられ高砂に住居し専ら其の波戸を築くに、以前、松前にて用ひし石船、砂船、ろくろ船、船石つり舟、等を用い大石をもて築立しが日拭未曾有の丈夫なる石垣を築立したりしは中々凡慮の及ばざる処なり。翁、高砂の海浜より出でて上は藩の御用を達し、或は諸国の水理をきわめ、まして尋常商船の事に於ておや、実に昇平の人傑というべし、其の名織帆にとどまり年朽せじといえどもなお其の道にあらざる人のしらざるを嘆く、仍て浪花の長野里氏にはかりて合嗣工楽氏より松翁が終身の所業を聞き得て其のあらましを略し拙き筆に書きとどむるもの也」とある。
 高砂港改修は二世松右衛門、三世松右衛門による工楽家三代にまたがる偉業である。
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 晩年の松右衛門は、択捉島開拓やこの高砂港の整備など主に公共事業に従事している。高砂港の整備では石船や砂船、轆轤船を駆使し、風浪対策として、東に東風請(こちうけ、土堤のこと)と石堤、南の港口に一文字堤、西に西波止を築設し、あわせて港の大掛かりな浚渫を実施している。高砂海浜公園の祠には文久3年(1863年)に高砂港の改修を藩に願い出て、湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設などを築いた三代目工楽松右衛門の名前が刻まれている。
高砂港
相生橋から臨む加古川河口

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