産繊新聞社

港湾浚渫工事の船を発明し択捉島へ

港湾浚渫工事の船を発明し択捉島へ

 『工楽翁の造る種々の舟は農具にあらざれども新田開発の時又は風波荒き所へ波戸を築き或いは海辺の堤など築くに用ふれば農家の一助ともなればこの書のすえに図を写し出し、なほ生涯の記をあらあら奥に記しぬ。編に翁の神宇品行を称し、ひいて余が常牒の拙きをゆるし給へ
 1・ろくろ板如連捲の図、2・一挺立ち、ろくろ舟、3・土砂積船、4・板鋤簾、5・底捲鋤簾、6・底捲舟の図、7・杭打舟並に杭打ちの図(長―七尋、横―七尺、人足四人掛)、8・杭抜き道具及杭抜き舟、9・若州造り、高松丸之図、10・石釣舟の図、11・石舟(救捲之図)、12・砂舟、13二挺立、ろくろ船の図、14・岡ろくろの図(其ノ他)』(大蔵永常著、農具便利論)
 大蔵永常が書いた農具便利論には、当時の原型を伝える精巧を極めたる図に一々航法、工具の使用法、最少限度の必要人力等、詳細なる解説が附され、その非凡なる精神には一見只々驚嘆あるのみである。現今の化学の粋をあつめたる土木建築工事を見ても、鉄板杭打ちなどが人力から機動力に変っただけで、松翁苦心の杭打ち法そのままを踏襲しているとしか思われない。化学の粋も地下の松翁にとっては苦笑いの種でしかないだろう。かくしてまず、破戸築造の工具一切の製作は完成したのであるが愈々(いよいよ)、寛政2年(1790年)5月幕命により、纜(ともづな)を解て千島に渡り、択捉島有萠湾に上陸した。窮北の地で霜雪と戦いながら築港の工事を進めたのであるが、厳冬氷雪、寒風凛烈の中、遂に労役に堪えず工事を中断して一先ず帰航したが、幕府はその労を慰するため、金三十両を附与したという。その文面に曰く
 申渡
 一金参拾両
  兵庫佐比恵町松右衛門
 右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地迄も罷越骨折相勤候ニ付墨面之通為取之
 戌十二月
 かくて翌寛政3年3月、再び蝦夷に航し、10月帰航して竣工を復命し、その後も度々往来して修復工事を行い、寛政7年完工の上、帰航するにあたりては、添触を発して、道塗を便ならしめた。
 摂津兵庫港
   御影屋松右衛門
右之者儀蝦夷地御雇相済帰付申付
摂津兵庫迄罷越間於宿々人馬入用之節は同人頭次第御定之賃銭請取之差出且止宿之儀も不差支様取計可興書付披見之上直に此者ヘ可相返候以上
 卯 六月二十一日
 富山元十郎 佐藤義兵衛
鈴木甚内
 従 箱館
  摂州兵庫迄
 右宿々 問屋 年寄 名主
 この恵登呂府島というのは戦前の千島列島、択捉島の西北部紗那郡有萠湾の築造の事であって、主に湾底に点在する巨岩を取り除き、船舶の碇泊にうれいのないようにしたことが主なる理由であったので、土着の人は翁の徳を頌して永く“松右衛門港”と呼んでいたのである。
 越えて享和2年(1802年)2月幕府は埠頭築造の功を称して工楽の姓を賜ったのである。 また翌享和3年には幕命により箱館地蔵町の寄洲に一嶋を築いた。一半に船作事場を設けその立場(俗にたで場という。船渠であって船底を焦燎する役目)には播州印南郡石宝殿の石が火力に絶え得る所から、その石材を家船に満載して函館築港に供したのである。
 文化3年豊前の国彦山の麓、大木巨材に富むも海を距ること八十九里伊田川及び今川の如き川流も水中、岩礁多く舟・筏を通す事ができず、せっかくの富材も運搬不便のため、持ち腐れとなっているのを嘆いた小倉藩主の招きに、九州小倉表に下り、藩主松尾貞蔵なる者に砕石の術を授け、舟運の道を開いたという。これが世にいう伊田川砕石工事である。
なお藩主小笠原大膳太夫の依頼により荒波によっていかに動揺してもその船室は絶対に傾かないという二重造り宙吊りの部屋を持つ舟を考案してこれを同候に呈した時は、世を挙げて奇想天外の造船術に驚嘆の声を放つのみであったという。行くところ可ならざるなき明晰ぶりは正に神品と称するべきであろう。
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 現代の多くの人は択捉島開拓の功労者が、高田屋嘉兵衛だと思っている。しかし、高田屋嘉兵衛が近藤重蔵に従って択捉に渡航したのは、寛政11年(1799年)の事で、松右衛門の渡航より9年も後の事である。では、なぜ択捉開拓において松右衛門の姿が薄れたのか。この件に関して、昭和50年兵庫史学会で井上俊夫先生が発表した「北方領土の先駆者―工楽松右衛門―」の中で次の三つの理由を挙げている。
 まず一つ目は私的渡航と公的渡航の違い。嘉兵衛は蝦夷地巡察使の近藤重蔵の随員として公に渡航したが、松右衛門の択捉渡航は、幕命とはいえ一商人の私的行動と見られていたため、歴史の中に残らなかった。二つ目は、その滞在期間。嘉兵衛は20余年にも亘り、蝦夷地を舞台に活躍し、その間に歴史上有名なディアナ号事件が起こったこともあり、その活躍が後世に伝わったが、松右衛門は、数年しか蝦夷地にいなかったため、その姿が薄れた。そして、三つ目は松右衛門の性格と嘉兵衛との関係である。松右衛門は努めて後輩をかわいがる性格で、そして引き立てた。両者には主従関係はなかったが、嘉兵衛を陰日なたに援助していた事が、司馬遼太郎の「菜の花の沖」の中にも描かれている。
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松右衛門が発明した浚渫工事の船(農具便利論)

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