産繊新聞社

災害時の避難所として

災害時の避難所として

テント(当時は幄、帷幕、平張等と呼ばれていた)が昔、どういう場面に使われていたか―この問いに関して、多くの書物や絵画から判断すると宮廷内で行われる屋外行事や儀式の際の臨時建屋としての使われ方が一番多かったことは〝その①〟で書きました。祭祀的色彩という点では平家物語巻十の大嘗会に次のように書かれています。「都ニハ御禊ノ行幸アリ。同廿五日豊御衣浄セサセ給テ、節下ハ後徳大寺ノ左大臣、其時ハ内大臣ノ左大将ニテ御坐ガ、勤給ケリ。去々年先帝ノ御禊ノ行幸ニハ、平家ノ内大臣節下ニテオワセシガ、節下ノニ付テ、前ニ龍ノ幡立テ罷給ヘリシ事、当リヲ払テ見へシ物ヲ、冠際、袖ノ懸リ、表袴ノ裾マデニ勝テ見ヘ給ヘリキ(訳・都では大嘗会が催されるということで二十五日、お召し物を洗った。進行役は当時まだ内大臣であった徳大路実定殿が勤められた。一昨年、先帝の安徳天皇の禊行幸の際は宗盛殿が勤められた。節会のためのテントの前に着き、前に龍の絵柄の旗を立てておられたときの宗盛殿のその雰囲気や冠の具合、袖の係り具合、表袴の袖まで、実に見事に見えた)」。行幸の際、天皇の御在所・休憩所としてテントを立てていた様子が描かれているのですが、当時も持ち運びができるというフレキシブルな特性からテントが利用されていたことを伺わせる事項です。
ただ、こうした儀式や祭祀の際にだけ利用されていたのかというと、そうではありません。これ以外にも持ち運びができるという特長からひとつは「地震など災害時の避難所」、もうひとつは「戦争における陣」にも利用されていたようです。まず、「地震など災害時の避難所」としての使われ方を見てみましょう。日本三代実録(※1)の中に次の一節が登場しています。「卅日辛丑、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈二、為御在所」。887年に起こった仁和(にんな)地震の際、光孝天皇が平安京の内裏のひとつである仁寿殿を出、御紫宸殿南庭に七丈のテントを立て御在所としたという記録です。平家物語(※2)巻第十二大地震の項にも次の一節が書かれています。「さるほどに平家滅び源氏の世になりて後国は国司に順ひ庄は領家のままなりけり、上下安堵して覚えしほどに同じき七月九日の未の国午の刻ばかりに大地夥しう動いてやや久し、(中略)法皇は新熊野へ御幸成つて御花参らせ給ふ、折節かかる大地震あつて触穢出で来にければ急ぎ御輿に召して六条殿へ還御成る、御供の公卿殿上人道すがらいかばかりの心をか砕かれけん、法皇は南庭に幄屋を立ててぞおはします、(中略)昔文徳天皇齋衡三年三月八日の大地震には東大寺の仏の御頭を揺り落したりけるとか、また天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に五丈の幄屋を立てておはしけるとぞ承る、それは上代なればいかがありけんこの後はかやうの事あるべしとも覚えず(訳・平家が滅んで源氏の世になると、国々は国司が治め、荘園は所有する公卿の家に従うようになった。身分の上下なく皆安堵して暮らすようになった矢先、元暦二年<1185年>七月九日のお昼をまわったころ、大地がしばらくの間揺れた。(中略)後白河法皇は新熊野へ参詣され花を供えていたが、折しもこのような大地震があり死者の穢れが出たので神事に障ってはいけないと、急いで御輿に乗り六条殿(院御所・六条西洞院殿内に建立された持仏堂)にお戻りになった。御供の公卿や殿上人は道すがらどれだけ心を痛めていただろうか。法皇は南庭にテントを建ててそこにおられた。(中略)昔文徳天皇齋衡三年(856年)三月八日の大地震では東大寺の大仏の頭が落ちたという。天慶二年(939年)四月二日の大地震では朱雀天皇は御所を去り、天皇が皇后や女御の常住する常寧殿(じょうねいでん)前に五丈のテントを立てしばらくそこにおられた、それは上代のことなので、まさかこの後こうした地震があるとは思ってもみなかった)」。
日本三代実録や平家物語に登場する地震の記録は現在の地震研究に使われているぐらいですから、精度の高い情報です。なかでも平家物語は、939年と1185年の地震で幄<テント>を建て仮屋としたという記載で、当時災害時の避難所として現在同様、普通に使われていたことを物語る貴重な資料といえるかもしれません。このほかにも続古事談(※3)にも「一條院ノ御時、大地震ノアリケル日、冷泉院仰セラレケルハ、池ノ中島ニヲタテヨ、オハシマスベキ事アリト仰セラレケレバ、人心エズ思ナガラタテ、御簾カケ莚シキタルニ、午時計リニワタリ給ニケリ、其後未時バカリニ大地震アリテ、遅ク出ル人ハ打ヒシガレケリ(訳・一條天皇の頃に大地震があった。そのとき、急におじの冷泉院様が、一條天皇がこちらに来られることがあるので池の中島にテントを建てよとおっしゃった。何故そのようなことをおっしゃったのか皆が不思議に思いながらも建て御簾を懸け、筵を敷いたときにはすでにお昼をまわっていた。その後1時から3時の間に大地震が起こり、建物から避難するのが遅くなった人は崩れたガレキに埋もれ亡くなった)」と書かれています。軽量性・可搬性(フレキシブル性)という幄<テント>の特長は、今も昔も大地震のような災害には必要不可欠なものだったのでしょう。
※1・日本三代実録
901年に成立した歴史書で六国史の第6番目にあたる。宇多天皇が藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平の4人に命じて編纂が始まった。858年から887年までの30年間を扱っていて、六国史の中では1番信頼度が高い。
※2・平家物語
誰もが知っている「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」から始まる平家の栄華と没落が描かれた軍記物語(作者不詳)。合戦だけでなく「大嘗会(巻十)」や「鶏合(巻十一)」など宮廷行事に記載も多く見られる。
※3・続古事談
鎌倉初期(1219年あたり)に成立した説話集。編者不詳。建保7年(1219年)に成立したと後書きに記載されている。
―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―
参考文献
新日本古典文学大系13・続日本記2/青木和夫、稲岡耕二、笹山晴夫、白藤禮幸(岩波書店)
日本古典文学全集 29 「平家物語」/市古貞次(小学館)
「読み下し日本三代実録」(上・下巻)/武田祐吉・佐藤謙三訳(戎光祥出版)
「新日本古典文学大系41 古事談、続古事談」(岩波書店)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional