産繊新聞社

美帆と理帆

美帆と理帆

美帆にとって高砂は退屈な町だった。
子供の頃よく遊んだ商店街はシャッターを降ろした店も多い。この町で買い物をするのは日用品や食料品ぐらい。おしゃれは、姫路か加古川、そして神戸まで買い物に出向くのが普通だった。
「もっと大きな町に住みたい」。美帆はいつもそんなことを考えていた。

―高砂市は、兵庫県の中南部に位置し、姫路市と加古川市に挟まれた約34k㎡程度の小さな都市である。昭和30年に工場誘致条例を施行、昭和39年、播磨工業整備特別地域に指定され工業都市として発展してきた。準工業、工業及び工業専用の工業系地域は約40%近い比率で、他の都市に比べて高い比率となっている。その一方、人口は10万人(平成22年段階)にも満たず、山陽電鉄沿線の各駅前は、高砂市駅でさえ寂れた印象を与えている。―

家に戻った美帆は、今日理帆と初めて出会った高砂神社の銅像が気になっていた。就職試験の勉強をしながら、空いた時間にパソコンの検索エンジンに、メモしていた漢字をそのまま打ち込んだ。
「工、楽、松、右、衛、門、くらく・まつえもん?へー、変わった名前」。すると、そこには彼の生い立ちと数々の功績が紹介されていた。
子供の頃によく遊んだ高砂神社の近くで生まれたこと、若い頃に船乗りとして才智を発揮したこと、松右衛門帆を開発したこと、港の浚渫のために石釣船や底捲船、轆轤船、杭打船(大蔵永常『農具便利論』より)多くの作業船を考案したこと、これらを駆使して地元の高砂港の波止の築設や「崖の上のポニョ」の舞台となった広島・鞆の浦の波止の修築を行ったこと。
美帆は地元の「郷土史かるた」に〝築港の工事を楽しむ松右衛門〟というものがあることを思い出した。「そうか、あれはこの人のことを言ってたんだわ」
ネットを調べていくと松右衛門が常々言っていた言葉が載っていた。
「人として天下の益ならん事を計ず、碌々として一生を過ごさん禽獣(きんじゅう)にも劣るべし。凡其利を窮るに、などか発明せざらん事のあるべきや(人として世の中の役に立つことをせずに、一生を漠然と過ごしていくのは鳥や獣にも劣ることである。利益を得ようとするのであれば<人のためになる>発明をするべきである)」。
社会や地域のために貢献する―自分が持っていなければいけない社会人としての資質を、松右衛門から教えられた。
退屈だと思っていた高砂が少しだけ好きになった。

 理帆が生まれた町は神戸市兵庫区の湾岸沿いの下町だった。
平成7年1月の阪神・淡路大震災では甚大な被害を受けた場所であったが、理帆の家は建物に一部ひびが入っただけで、まだ小さかった理帆に怪我はなかった。
ただ、仲が良かった友人の中には家の全壊や、火事で亡くなった子も多くいて、母親を早くに亡くした理帆にとってショックな出来事だった。そのトラウマが、理帆を内気な性格に変えた。
理帆は洋服を作ること以外に読書も趣味だった。特に歴史もの、司馬遼太郎の小説が好きだった。坂の上の雲、龍馬がゆく、義経…司馬遼太郎の作品は何でも読んだ。その中でも実家に近い西出町で商売をしていた豪商・高田屋嘉兵衛が主人公の「菜の花の沖」が好きだった。歩いて5分ぐらいのところに〝菜の花ロード〟と名づけられた幅の広い道路があったが、それがこの小説に由来することも理帆は知っていた

―高田屋嘉兵衛(1769年~1827年)は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。淡路島の都志で生まれ、22歳のとき兵庫にでて廻船問屋の主人堺屋喜兵衛の下で樽廻船の船乗りになった。1796年28歳のとき、船持船頭として独立、蝦夷地・箱館(函館)に進出した。その後幕府の択捉開発を担当していた近藤重蔵からの依頼で、潮流が複雑で速く航海の難所であった国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築いた。1811年南千島測量のため国後島に来ていたロシア船・ディアナ号の艦長・ゴローニンが日本側に捕えられたゴローニン事件が起こったが、その翌年今度は択捉漁場からの帰りの嘉兵衛がロシア側に拿捕された。その後抑留されたカムチャツカで日露交渉の間に立ち、事件の平和的解決に貢献した。―

理帆は美帆と別れた後、松右衛門の名前が「菜の花の沖」に登場していたことを思い出し、家に帰ってから小説をもう一度読み返した。
「松右衛門旦那」という呼び名でこの小説に登場する松右衛門は、嘉兵衛にとって憧れの存在として描かれていた。旺盛な開拓精神を持つことで商人として成長していった嘉兵衛が、松右衛門の影響を受けていたのは明らかであった。
〝菜の花の沖〟に羽州秋田から材木を運ぶときに松右衛門が試した工夫のくだりがでてくる。当時の船は材木を運ぶには不向きであったため、松右衛門は巨木で筏を組み、それに帆舵をつけて大坂まで航海したという。また、蝦夷地から大坂に新鮮な鮭を運ぶために調理方法を工夫し「新巻鮭」を考案したのも松右衛門であった。
松右衛門の生き方に惹かれた美帆に対して、理帆はものづくりの観点から発明家・松右衛門に惹かれていた。
それからふたりはメールや電話で連絡を取り合ったが、いつも松右衛門という共通の話題で盛り上がった。

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