産繊新聞社

船の帆の改良に取り組む

船の帆の改良に取り組む

 これからの15年は、松右衛門が働く廻船問屋「御影屋」の主人の信頼はますます厚くなり、北は北海道の荒波より、南は九州筑紫潟。全国津々浦々を乗り回し、商い船として利益を得ることも少なくはなかった。しかし実際に船を操縦していて、「船足が軽く速ければ、利潤がもっと多く増えるだろう」との考えが頭を過り、遂にはこればかりが悩みの種となるようになった。
 ―帆の改良。何とか良い帆を張る道はないか。帆はどうしたら織れるのか。薄い布の合せ縫いなんか誠に手数がかかり間に合わない。太い糸で一度にしかも幅の広いものは織れないか。確かに織れる。姫路木綿を土台にして考えてみよう。織れぬ道理はない。―この頃松右衛門の頭の中の興味は、船頭ではなく織布の発明となった。
 松右衛門が40才になったとき、主家を退き自己の業を営むこととした。
 「此人常にいへらく、人として天下の益ならん事を計らず、碌々として一生を過さんは禽獣にも劣るべし。凡そ其の利をきわむるに、などか発明せざらんことのあるべきや、と金銭を費やし、工夫せられしこと、少なからず、其の中に船の帆を織って用うることを始められしが、今世に松右衛門帆と称して何国の舟も用うることとはなりぬ…。」(文化年間発行大蔵永常著―農具便利論の一節)
 自分も利し人も益する、諸国国々の海に浮かぶ帆かけ舟何千艘、此れを発明すれば何万人の人が喜ぶことか。人知れぬ苦心はここから始まる。先ず細い糸を合わせ太き糸を造ること、之が第一。糸を集めるためには破れた衣類、手拭いの端まで拾い集めて、丹念に之をほぐし手撚りにして太くし、また強力を試した。小幅の織機をばらし、ばらしては組み立て、部分部分の寸法割り出しに注意を払い寝食を忘れた苦心が3年続いた。
 二見の織工場に立てこもった松右衛門の日常は、明けても暮れても広幅織機の構造―試作の連続であった。姫路木綿の三倍以上の厚み―三幅以上の広幅。計数に長けた彼の頭脳では理論的な割り出しは容易であった。しかし、重量的に耐えうる手機(てばた)としては、もともと不揃いの節だらけの手撚りの太番手を以って織るという悪条件がついて廻り、彼の眼は血走り、骨を削る、まさに縷骨、砕身の3ヵ年であった。
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 天明以前の帆
 帆といえば誰もが帆布を思い浮かべるが、十七世紀後半に刺帆(さしほ)が登場するまでは筵(むしろ)帆が使われていた。藁を編んだ筵(むしろ)は、耐久性に乏しく、雨などで濡れると重くなり操作するのが大変であった。木綿の国内生産が増大して価格が下がると前述の刺帆(さしほ)が登場したが、これは木綿布一反が小幅だと約8寸(24㎝)しかなく、これでは帆布としての幅が足らないので、三反を横に縫い合わせ、約2尺2寸(67㎝)の帆布地として、これを一端と称していた。当時の綿布は薄く、二枚を重ね太い四子糸で刺し子のように縫い合わせていたため「刺帆」と呼ばれていた。
 江戸時代の『万祥船往来』には、
 ―近来は木綿帆を用ゆ、縒糸を以てこれを刺縫ふはさけやぶれざらしめんがためなり、凡木綿三幅を一端として、六、七端、大船は二十余端のものこれあり―
 とある。
 刺し帆の製作は手間がかかりすぎ、しかも一枚の布自体が薄かったので刺し子にしたところで破れやすく、強風で破れたという記録も多い。(参考・石井謙治著『和船Ⅰ』/法政大学出版)
画像の説明 なにわの海の時空館にあった菱垣廻船
江戸時代以前の帆 松右衛門帆が出るまでは莚帆が主流
ロープへの縫い留め ロープへの縫い留め

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