産繊新聞社

若かりし松右衛門

若かりし松右衛門

松右衛門は、寛保三癸亥(1743年)の年、播州高砂高砂の浦高砂神社境内前、東宮町に生まれた。父の名を宮本松右衛門と云い、幼少の頃から人に勝る天才児で、近辺の児童と遊戯していても、そのなすことが、既に群を抜いていた。かつ、豪胆で、機智に富み、手工、工作など趣味として、或は玩具を考え、機械を造り、言動も総て常人と変わるところ多く、遂には、父母も却てその行末を案じ恐怖を感じたほどであった。殊に魚漁に至っては父祖の血を受けて釣りをしても網を打ってもこれが子供の術かと驚く許りでまさに生まれながらの名人芸であったという。
 「工楽松右衛門といへる翁は元播州高砂浦の漁夫にてありしが、いとけなきより漁業をなし、昼夜海に浮かび釣りする糸の手ごたえにてその魚の品種を掌中に分かつことを得、季節にしたがいその類の集まるところを知り、往く道を志して網するに更にあたらずということなく、よろず才智あること若かりしより妙に得…(中略)」(文化年間発行、大蔵永世著・農具便利論の一節)とあるをみてもその片鱗がうかがわれるであろう。
 12、3歳ともなれば、もはや彼の頭の中は一高砂の浦の子供ではなかった。両親や近隣の子供を話し相手とした時代は過ぎて、高砂の浦に入る船の船頭衆が、いつの間にやら彼の友達になった。舟の構造や操舵が興味の中心となり、江戸、長崎から近くは室の津、堺、兵庫と諸国の港の話、航海中の苦しい思い出や楽しい海の暮らしの話を聞くのがなによりの楽しみとなり、幼くとも鋭敏な彼の頭を刺激したことは疑いようも無かった。
 近くて一番繁華な港、兵庫津
「これだ!ここが一番よい、兵庫に出れば高砂で見る何倍もの大きな船にも乗れる、南蛮船も見られる、同郷の大先輩・天竺徳兵衛の乗った御朱印船も海に浮かぶであろう」
少年の夢は果てしなく末広がりに飛躍していくのであった。
心は宙を飛んで魂の抜け殻だけが高砂に残った。幾度か両親に胸中を打ち明け、出郷をせがんだが、これは到底許されるべきことではなかった。というのも、両親にしてみれば松右衛門の考え方があまりにも奇想天外の着想で、まるで雲をつかむような戯言としか映らなかったであろうし、親の膝下でさえ持て余す日常の言動が、一度他郷に出て思いのままに振舞うとき、どんな結果を生ずるか、どんな迷惑を他人にかけるか、火を見るように明らかであり、異常神経児の行く末が常道を踏み外し、有り余る知恵が悪に走ったときのことのみが頭に浮かび、恐ろしかったのである。静かな高砂の漁村で一介の漁夫として安穏な一生を過ごす事を願う両親の願いは無理からぬ事であった。
ことさらさように親子の考え方の開きは大きかった。だからといって松右衛門の思いは、抑えられてそのまま止まるものでなければ、断念するものでもなく、いよいよ募る出関の思いは燃え盛り、遂に父母の膝下から脱出の計画を立てるに至った。
松右衛門15歳にして郷関を辞する。寛延11年(1758年)3月、春まだ浅き夕間暮れ、風呂敷包みを背負った少年は、脱兎のごとく加古川を渡り、尾ノ上、別府、二見、明石と物に追われるがごとく走り過ぎていく。
意を決してひそかに我が家を隠れ出て、目指すは寝た間も忘れやらぬ兵庫へ。夢が待つ兵庫へ。兵庫の港近き諸国廻船問屋御影屋に足を止めた彼は、直ちに船夫として住み込み、まめまめしく働くのであったが、元来才気勝れたる若者であったので、直ちに主人に認められ帆船の操縦方法から荷物の積み下ろしに至るまで、日ならずして習得し、元気に任せ大人も及ばぬ働きぶりは、年季の入った多くの船夫たちの舌を捲かせたものである。
それからの二ヵ年は一心不乱に修行に打ち込み、早くも彼が十七歳の春、独り立ちの船夫となって、一隻の新造船を主人に請い得て、翌春竣工とともに高砂行荷物を満載し、なつかしの高砂に錨を下ろしたときには、両親はもとより村人の驚き一方ならず且つ怪しみ、皆々打ち寄って遁走後の修業を聞き、立派な船夫となった男の姿に二度びっくり、一堂意外な面持ちでその成功をほめそやしたという。
松右衛門が24歳のとき、船乗りとしては考えられない行動を起こした。当時の習俗として年に一度の大晦日の日、除夜に舟を出せば必ず災厄に合うというものがあり、航海中の船も港に錨を下ろして静かに除夜の鐘を聴くというのが船頭衆の習いとなっていた。これを耳にした松右衛門はカラカラと打ち笑い、如何なる災厄に会うか我身をもって体験せんと人々の止めるのも聞かず、三人の船手に一人の水先を乗込せ、讃州地方に向け出帆した。金比羅大権現も照覧あれと許りに…。
 出帆してまもなく、不思議なことに山のごとき、20余りの怪物が現れ行く手を遮った。水先大いに驚きその由を松右衛門に告げたが、彼は一場を戯言と思いつつも試みに船首に出て、遥かに行く手を見ると、こは如何に、山のごとき怪物、航路に横切って針路も定め難きとみて、励声一変、水先に「山あれば必ず谷あり、谷に向かって船を進めよ」と叫んだ。一同止む無く命の侭に漕ぎ行けば、その恐ろしき怪物は直ちに姿を消して跡形もなく消え失せ、船は無事に目的地に着いたという。後この事実談を聞いた人々は、今度は豪胆な松右衛門に再び驚きの目を見張ったという。
肖像画  松右衛門の肖像画

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